ベルリンの壁崩壊は実際どうだったか

ベルリンの壁 崩れる、笹本俊二著、岩波新書、1990年発行
1,なぜ読むか
このテーマもサラリーマン時代横目で通り過ぎたような歴史的事件であっておさらいをしたいような気にさせられている。これは現在の香港問題、北朝鮮問題、その他の壁問題のある地域が今後どうなるか予想もつかないことではあるが、

可能性としての希望はあるのではないかという、ことからもこの問題関心を持った。

もっとこの問題に関しては良書もあるはずだが、1990年発行ということでまさに進行中の壁崩壊の状況を未来がどうなるかわからない時に書かれた、という意味で脚色のない本といえよう。

2,この発端は
ハンガリーへの旅行は許されていた。(夏休みはハンガリー西部にある大きな湖、バラトン湖のそばで過ごすのが東ドイツの人達の楽しみであった。)そのハンガリーから西ドイツに移動できる人たちがいたということである。
東ドイツ人はハンガリーの東ドイツ大使館からの許可がなければさらに西ドイツには出られないのであるが、一部の人には通行が許可された。これが1989年ころには30万人、40万人と膨れ上がったのである。この事情にはハンガリーの国境開放という重要な決定があった。この30万から40万人という人たちは大体が若い人たちで30から40代前半といわれている。そのため東ドイツの産業がストップされたものも少なからずあるという。東ドイツの空洞化が始まった。これによってもだが東ドイツの経済はほぼ破綻状態になったという。ハンガリーはこの大量の人たちを乗せて特別列車を用意し西ドイツまで送った。この費用は西ドイツが払った。

3,時代
もうすでにソビエトはゴルバチョフの時代であった。それでもソビエトは崩壊していない。この89年から90年という年は全世界的に政治が揺れ動いた年であった。そして記憶せねばならない重要な事件が多く起こったのである。ポーランドは連帯指導の内閣発足、天安門事件、昭和天皇の崩御、冷戦体制の終結の流れが一気に進んだ年であった。中国もそういう流れに乗るかに見えたが、天安門事件で後退した。

4,現実
現実はどうだったか。
① 東ドイツ高官の腐敗
② ゴルバチョフのペレストロイカの時代、自由化の流れ
③ 東ドイツの経済破綻
④ 東ドイツ反政府運動(著名なクルト.カズア楽長、指揮者が指導、何か大きな事件があるとクルトカズアに聞こう、ということが多かった。無血革命指導)
⑤ 若者の逃散ともいうべき逃亡の流れ
⑥ ハンガリーの西側との協力関係の必要
⑦ コール首相の頑張り
この7つくらいの要因が重なってこのベルリンの壁崩壊につながったと言えよう。

1989年11月9日の夕方に、(この逃亡の人の多さに音を上げた政府は)旅行の自由に関する政令を出すことになった。
この時の政府の報道官がいまだ法律の形をとっていないもの草案を間違って西側の記者会見でしゃべったのである。ほぼ全員が希望すれば西ドイツに行けるという内容であった。そのために政府からの許可証が必要でその許可証は今までと違って即出せるものだということも言っていた。しかし報道官の発言は今直ちにというドイツ語を使って今すぐゲートが開かれるような印象があった。それを西側のテレビを見ていた(東ドイツ国民の70パーセントは西側の外国放送を受信していた)ベルリンの人たちは国境ゲートのそばに集まってきたのである。最初は100人単位1時間2時間するごとにおびただしい人数に膨れ上がった。検問員は上官に連絡を取るが何もするなという返事で一向にらちが明かない状況の中でどんどん人が増えてくる。何回も上官に問い合わせるが同じ答え。検問員もどうしてよいかわからず群衆の勢いに押された形でゲートが開かれてしまった。また壁の上によじ登って踊りだしている人たちも大勢でてきた。こうして1989年の11月9日の夜に東西の検問所は開かれてしまったのである。
実際の壁の崩壊はその後になるのである。また東西ドイツの統一は翌年90年には成立するのである。歴史が大きく動いた日であった。
(この間の事情はウイキペディアに詳しい。)

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