エラスムス=トマス・モア往復書簡、沓掛良彦・高田康成訳、岩波文庫、2015年6月発行、(原著1499年から1533年までの50書簡)
初めに年代の確認
エラスムス30才から64才まで
トマス・モアは21才から55才までの現存する50の書簡集である。
9才差である。
1517年がルター、宗教改革始まる
1523,24年ツヴィングリ宗教改革スイスで始める。続いてドイツ農民戦争
モアとエラスムスの地位
ルネッサンスも起こり、また大航海時代も始まる。ヨーロッパは激動の時代となっていった。
イギリス国王のヘンリー8世が自身の離婚問題からカトリックから離脱、国教会が始まる。英国の最高の地位まで上り詰めていた大法官モアはこれに反対して、ロンドン塔幽閉、斬首刑となる。
一方エラスムスは今でいう遍歴していた知識人、特定の職業なくして宮廷の顧問官になったり貴族の教育などをして生活する、がその中ではもっとも有名な知識人だった。彼は基本的にはカトリックではあったがカトリックにも批判的、ルターのプロテスタントにも批判的であった。ラテン語文化圏というヨーロッパの知的な世界空間の中では相当影響力があったのでどちらの側も味方に引き入れたく動き、あるいは味方にならないとすれば徹底的にたたくというような状況が起こっていた。
近代の始まりという問題の時期に当たる
この時期の歴史は非常に戦乱と混乱、思想もまた大きな変革期にあった。現在ではルネッサンスがヨーロッパの近代化の扉を開いたのか、それとも宗教改革がそれだったのかの議論には、M・WEBERが結論を出した。しかし近代化の問題を一応棚に上げるとすれば、ヨーロッパの学問の新しい系譜がここで起こっていた、と考えることもできる。だから単純な宗教改革中心の歴史理解も偏っているのかもしれない。ある意味そういう反省を促すような往復書簡集である。
本書の中身であるが
金をいくら借りたとか、本の出版で批判されたとか、その批判者が頭がおかしいのではないかとか礼を失しているというような話が盛りだくさんで出てくる批判者や本などはたぶん私もそうだが日本人はほとんど知らないだろうと思われる。
この本でうかがえるのは、トマス・モアは英国の官僚としては外交筋から大法官になった人物であるから成功した人であるし、生まれは貴族では無いようだが結局は貴族の地位にいたという事である。またエラスムスというのはその名がとどろき渡っているがゆえに多くの宮廷はかれを呼びたがっていた。またそういう事によって生活の資は稼いでいたようである。だからどちらもその時代のトップ層に近いところで仕事をしていたようだ。
もう一つはこの時代は、聖書の解釈の問題がいろいろ出てくる時期という事もあり、イタリアルネッサンスもあり、そこで生まれた知的には人文主義という時代でもあり、聖書の翻訳、校訂などして自らが聖書を理解する時代に入っていた。それ故にヘブル語、ギリシャ語、ラテン語などを学ぶことが知識人の最低の教養だったことがうかがえる。エラスムス自体がこの3言語の学校を作った。またギリシャ語を学ぶためにはイタリアへ留学しなければならなかった時代だが、モアはその留学生からギリシャ語を習った人で留学しないでギリシャ語を習得した初めての人物とも描かれている。ルターが原典からドイツ語での聖書翻訳をしたようにイギリスでは英語翻訳がスタートし種々出回って来だしたようである。レベルは当然いろいろあったようだが。
本書の重要なところ
本書の本当の重要性は二人の関係である。友情という絆に結ばれていて、話は快活である。9歳年上で知的な先輩としてモアはエラスムスを見ている。それもイギリス人とオランダ人である。海を隔てたところに住む二人の知識人がその時代にどういうめぐりあわせであったかはわからないがそういう知的な交流としてのヨーロッパ全体という大空間があったようである。この空間ではラテン語が活躍した。このようにな人に代表される遍歴知識人たちによって交流がさらに深まる。手紙で紹介されたり、また手紙をそういう人たちに託して持って行ってもらう、など郵便制度のない時代の困難な手紙という手段での多くの交流があった。歩いたり、船にのったり馬に乗っても大変な距離である。その物理的な距離を超えて彼らは付き合った。現代のオンラインコミュニケーションではないがなかなか面と向かっての議論ができない、そういう時代の本当に面倒な、そして悠長な感じが出ている。首を長くしてどちらも手紙を待っている、またそれがゆえに友情も深く、思想的な連帯も強くなっていったのではないか。
新しい発見
二人に共通するのは、思想的には保守的であるという事だ。カトリックを守りたいという意志は二人に共通のもののようだ。つまり世界の名著に出てくるような先端的な人物が案外保守的であったというのは新しい発見である。だからこそ宗教改革でヨーロッパ近代を切り取るという事も偏っているのかもしれない、と感じるところである。
最後に
この本は最初はとっつきがよくてサッサと読み終えるかと思いきや、分からない話がたくさん出てくる。然しそれはそれとして置いておくとすれば二人の友情というものをはっきりと教えてくれるものになっている。ますますこの15,16世紀の端境期のこの奥深い知性の世界に私も入っていきたいと思うようになった。だからある人が言っていたがヨーロッパの学問をおざなりにできない。ヨーロッパは終わった。今はアジアの時代だと言っても通用しない。学の長い伝統と思想の闘いの長い紆余曲折がある。十分吸収していく必要が求められる。今後世界的な思想の革命がおこるのかは分からない。あるいは彼らのように大きな変動期が目の前に来ているのかもしれない。そのためにも友情を温め、互いの知性を磨いておく必要はあると教えてくれる本である。