「大塩中斎」、宮城公子編集、洗心洞箚記、檄文、1959年発行、日本の名著第27巻、中央公論社
なぜこの本を読むのか
ウクライナの戦争などあり危機の時に学者の評論などたくさん見るにつけ、学者や評論家の本音はどこにあるのかとか、あなたは主体的にこういう時どういう行動を起こしますかというようなことを聞きたくなることがたくさん出てきた。学者や評論家というのはあるテーマだけに絞って出てきていかにも訳知り顔に語るのではあるが、はっきり言ってどうなっていくのかはよくわからないというのが実情だし、
そういう学者や評論家も本当のところはわからないといったほうがいいのだろう。こういう問題が起こった時に知っておくべきことや背景などは学者や評論家の真骨頂となるところである。しかし本質は現実なので、預言者でない限り非常に予測不能であるし、将来を見据えることもできないだろう。学問と現実のせめぎあいの葛藤の中に彼らはいるのか、いないのかなどと考えているとふと、学者だった大塩平八郎がなぜ大阪で大反乱を起こしたかということに非常に興味を覚えることとなった。その彼の陽明学というものに革命的な反乱的な思想が含まれているのか、それともそれとは関係なく指導者としてやむに已まれずの事だったのかとかはっきり言えば彼の動機と彼の学問との関係を知りたくなった。大学の先生で革命を目指す人なんて言うのはほとんどいない。マルクスは学者ではあっても大学の先生ではなかった。大塩も在野の学者だった。しかし公務員として何年か幕府に仕えたのである。それも与力というから今の警察である。基本的には体制側の人である。また陽明学というのも革命の思想ではなく支配体制側の思想であるはずだ。しかし彼特有の何かがあるのかめくら蛇におじず、でこの超むつかしい洗心洞箚記を読み始めた。
大塩平八郎
彼のことをウイキペディアで参照してみる。
1793年寛政5年生まれ1837年天保8年没
14歳大坂東町奉行所与力見習い
25歳与力
31歳陽明学を独学で修め洗心洞を自宅に開く
37歳与力を辞す
事件に関係するものとしては
天保の大飢饉
天保4年から5年(1833から34年)
天保7年から8年(1836年から37年)
特に後半の天保の飢饉がひどかったようだ。
また当時米一揆百姓一揆が頻発。甲斐、三河。奥羽地方では10万人の死者が出た模様。
大塩平八郎の乱は1837年、檄文とともに農民と訓練された一部の武士たちとともに豪商の家を焼き払い大砲をもって出陣したが事前に密告などもあり成功せずに終わった。この経緯も面白いものがあるが、これには触れずに彼の著作を検討したい。
洗心洞箚記(心を洗う洞のノート、という意味)
1833年発行
彼の本を一渡り読んでみる。なかなかむつかしい。基本は政治学あるいは政策学、その中心に哲学がある。また哲学の中心に倫理学があり、どういう政治が必要か、そのためにはどういう考え方が必要か、その考え方はどうして出てくるのか。その考え方がよければどういう実践があるのか、その時の精神は何か。この思想はどういう人が持つべきなのか。この中央公論社日本の名著、シリーズは漢文を和訳してもらっているので読めないことはない。しかし彼のいうところの言葉は難解である。知行合一、格物致知、太虚、致良知などがキーワードであるが、これらの言葉は概念規定のない言葉でいろんな文章を読んで分かったと思って進んでいくしかないような言葉である。
私のつかんだこれらの言葉の考え方、内容について
この本の概略はいろんな儒学者、孔子から始まるような人たちの思想の理解についてコメントしていくような内容である。そのコメントというのは彼の陽明学とどんな関係にあるのかというような内容であり、その類似と違いが自分の思想を明確にしていくようなところがある。だからノートといっても自らの思想を中心に語っていくのではないが、自然と彼の思想のがどこにあるのかということがわかるようになっている。またこの本は上下に分かれており、後半が重要と思われる。
彼の思想の骨子は太虚と致良知のこの二つだ。
太虚とは、宇宙大の空間における法、宇宙理性、神のようなものであろう。またこの太虚は心の空間にもあるので個人の世界にもこの宇宙があり、通じ合っている。君子はこの太虚を悟り太虚に身を預けられれば聖賢と言える。真理がそこにあるというような内容である。これもはっきりした定義はないが言わずとそういう感覚はわかる。またこれは、儒教特有なのかもしれないが、君子、小人とあり、りっぱな人かそうでないかと人間がわかれる。日本儒教の限界といわれるこの思想は、誰の知識か、誰のための知識か、何のための知識かというようなところが問題となる。農民や商人はこれに入らないというのがふつうである。女、子供はましてはいらない。要するに支配層の政治、国を治めるときの思想である。しかしながらこの陽明学も宇宙の真理までも問題とするのである。支配層が真理に意識が向けられていれば政治も何とかなるということになるので、支配層の倫理観が非常に厳しく問われるような思想である。これはあと一歩のところにある。要するに被支配層も支配層もそのあるといわれる究極の真理に自覚し自己の倫理を見直すとすればある意味西洋のプロテスタンティズムのような世界が生まれる可能性もある。しかしこの大塩の思想を突き詰めていけば人間はだれでも究極の真理に目覚めることが可能である、というところまで行きそうになっているのである。
乱の原因
私はここに大塩の乱が起こった原因ありと見ている。江戸幕府の爛熟と腐敗とはかねてより言われてきたことであり、それがゆえに、明治維新にて敗北し幕府の時代は終わった。つまり、大塩の論理で言えば経世済民は支配層の倫理観が非常に重要になってくる。そうでなければ政治がうまくいくはずがないと。宮城公子氏の解説も明快にはしていないがそういうことを示唆しているのではないだろうか。
致良知もこの真理を知りそれを実行に移すのが支配層の重要な役目である。政治に携わる人の重要な考え方であるとみている。
つまりこの陽明学を突き詰めていけば、宇宙万物すべてのものが真理に従うべきものであり,真理に従うときに良き政治が行われ、かつ良き生活が出来るという事になるのである。決して彼が農民について同情していたとかいうことではない。世界はこの真理に従うべきであるということからすれば、従わない人たちはおかしいということになる。かつこの実行、実践というのが大塩の大命題なのである。そこが陽明学の危険なところか。たぶんその真理を知ったならそれを実践する。生死を問わない。真理のためであればどうなろうと実践するという硬い思想が大塩の思想である。このことはいろんな箇所に出てくる。そんなに真面目に真剣になっていいのかというような感じもするが、彼はその儒教に生きているので真剣である。一秒も無駄にせず、精進し太虚の真理を得るまで読書をし致良知を目指しているのである。
大体読んでみればわかるが、なかなか厳しい内容でありすべてにおいて現実批判的である。
事件との関係
またこれを著した時というのはまだ若い時期(30代後半)であるから、これだけの博識がある人物がを政府の小役人でいることは自分自身納得もいかなかったであろう。一方日本の中では著作も発表しているので結構有名にもなっていたようである。早くして与力をやめて塾を開き、出講したりして名前は売れてきたが、彼はそういうことを目指していたわけではない。太虚の真理の伝道者であったのはないだろうか。しかし、その幕末に近い時期に天保の飢饉が起こりその時の政府の政策が彼の言うところの太虚の真理を生かした政治ではなく、上役におもねり、出世のみを願う役人たちと富にのみ目がくらむような大商人たちと言う小人とによって宇宙の大真理は破壊されていると感じたのは無理もないことだっただろう。そのことによって民衆は道端で死んでおり餓死者まで出ていた、経世済民とは全く別世界がここにはあった。彼の、真理に燃える思想からその怒りが本当に燃え上がったとしても不思議ではない。
実際彼の思想から直接的にこういう革命的な思想や考え方そして実行が生まれたとするにはいろいろ問題があって専門家でも決して一直線につながっているとは言っていない。
しかし農民にも儒教を教えていたので親近感もある、一方で過酷な税を取り立てられている農民の苦しさもよくわかっている、また死者が出るほどの飢饉であり、また他方役人の汚い世界もよく知っている大塩が反乱を起こしたとしても不思議ではない。非常に生真面目な性格で言っていることを実行しないでは気が済まなかったかもしれない。
結局はその思想と反乱の結びつきはなかなか分からないものであるが、一介のインテリがこういう反乱を起こしたことについては、回りのものは気が触れたといっている。ある精神医学の専門家はメランコリー症候群とも言っている。
伏線
伏線としてあるのは、この天保の飢饉、彼の陽明学、さらに本来はそこを卒業しているはずの名声、出世への強い意欲があった。江戸幕府へ出仕したいという強い気持ちもあった。彼の後援者であった、山城守はいったん与力を辞職しないとその話は無理だとすすめたともいわれている。それゆえ若い時に辞職までした。しかしこういうことも結果としてはすべて否定された。そういうことが伏線としてありながら彼の学問との関係から言えば現実の悲惨な状況というものも無視はできないと考えざるを得なかった。特に大坂東町奉行所の跡部というトップに怒りを感じていたということもあり憎しみが一層強くなった可能性はある。
結論から言えば
やむに已まれぬ強い気持ちからこういう反乱を起こしたのだが、はっきり言ってこの反乱というのかこの事件はあまり評判のいいものではなかった。こういう農民一揆風の打ちこわし、火付けなどによって大げさなほどの評価もあるが、現実には何も解決もされなかったわけである。大坂の町が大火に見舞われたということから多くの焼け出された人たちが出たという。精神病説もなんでも精神病にしてしまえば誰でもがこの種のことをできたかと言えばそうでもなかろうと思う。気が狂うほどの怒り、気性の激しさ、厳しい自己規制、広大な哲学などが一体となって事件が起こった。しかし火事は燃え広がったが、市街戦はあっという間に終了した。関係者見物人を合わせて500人、乱に参加した人も多少の鉄砲の打ち合いもあったが直ぐに散り散りになっていなくなった。あっけなかった。
残されたものは何か、この彼の陽明学である。
あと一歩で近代精神に行く着くところまで来ていながら、できていなかったというのは酷だろうか。それは人間の普遍性への意識が時代の制約のために限定的であった。また社会性という問題も儒学だけではいかんともしがたかった。それでも江戸の後半の時代は経済学者が出てきたころではあったのだが。
抵抗の論理としてもはなはだ弱いものだっといえるかもしれない。
彼の思想は幻想だろうか。
またその精神医学の専門家によれば、この彼の陽明学というものは幻想だったという。しかし幻想と言って思想を片付けるわけにはいかない。長い間中国経由の学問として受け継がれてきたのであり、ある意味の論理。考え方の論理をもっている、さらに言えば抽象化というむつかしい哲学的な世界をも垣間見させている。それによって自己の思考の論理の形成を作っている重要な道具であったはずだ。ただし、彼の著作を読むと、やはり定義のない世界なのである。定義なしであるから分かったと思う人には分かったことになり分かってこない人には言葉だけが宙に浮くということだ。そういう意味では、厳密な学と言えなかったかもしれない。この儒教を江戸時代下手をすれば明治時代の人たちもわからないながら勉強していた。しかし新しい明治維新により欧米から哲学が入り科学、技術が入るとすぐにこの難解な儒教や仏教の言葉で翻訳ができたのである。この能力はアジア一ではなかったか。大変なものだと思う。
だから大塩問題はまだまだ闇の中にあるといっていいだろう。
「義人がその義によって滅びることがある。悪人がその悪によって長生きすることがある。あなたは義にすぎてはならない。、、、あなたは自分を滅ぼしてよかろうか?悪に過ぎてはならない。」伝道の書7、15