「大塩平八郎の時代ー洗心洞門人の軌跡」森田康夫、校倉書房、1993年発売
大塩平八郎の乱または大塩という人物をしり、この事件の意味を考えるに非常に良い本が見つかったので簡単に報告しておきたい。
この本では、大塩の乱を世直し運動の一つとみている。これも大事な要素であろう。私としては深く考えもせずに、一介の人間が、火を放ち大変な騒動を起こしたものを、最近あった大阪の小さな病院に灯油を持ち込んで火を放った事件のように見るようなところもあった。つまり良きことと考えても大塩の乱に何か教訓みたいなものがあるのかという疑問があった。ある意味私的な怨恨もあり、私的な動機が最優先され、大坂市内に火をつけ,大坂の町民を巻き添えにし、かつ弟子たちをも、村人をも巻き込んである意味はた迷惑な事件を起こしてしまった。最後は自害して果てたというところに、何ら生産性のない行為だった。というように見えた。彼の哲学はそれなりに大きな世界観の中に築かれているが、逆にその大きな世界観がこの事件ですべて台無しになって終わったかのように思った。
しかし、いま紹介する本は、また、もっと歴史を深く見る視点を持っているように見える。
というのは彼の弟子だった弓削村の七右衛門は連座して極刑となった。しかしその時6歳だった息子がいた。彼は15歳になるまで彼の異母兄弟の兄の家で養われていた。犯罪者の息子として昼は出歩かないように母親は厳しく教育していた。
七右衛門の息子の常太郎のその後
15歳の時流罪となり隠岐に流される。幼少期は犯罪者の息子でも刑は執行されず、江戸時代の成人になってから刑が執行されたようである。法的にそういう江戸の仕組みがあった。それで隠岐に流された。しかし、隠岐で待ち受けていたものは、案外温かい境遇だったようである。その息子の名は常太郎。この常太郎は勉強熱心で漢学も収め、その後は隠岐の受け入れてくれた方の中に、彼の勉学の熱心さから医学を目指さないかと言われ、西洋医学ではなく漢方であったようであるが、医学を習得して、明治維新になり大坂へ戻って医院を開業したようである。
時代の共感
その大坂へ戻る前の慶応2,3年(1866,67年)に隠岐騒動が起こる。この隠岐騒動も世直し運動的な事件であった。農民だけではなく一部の武士、儒学関係者などがいた。そこにある意味の指導者としてこの常太郎がいたのである。そのことを史実をもとに大塩の乱後の話としてまとめてあるのがこの本である。細かいことは省くとして、要するに大塩の思想が時間と関係者の中でつながっていた。彼の思想は生きていた。だから私怨、妄想的な怒り、激発した感情の高まりによって起こしたものはないということが感じられる。単なる人騒がせな、かつ迷惑な事件で片づけられないだろう。冷静に考えていく必要がある。大塩の乱当たりの時期は幕末に近い時期である。この時期は次第に物騒な事件が起こっている。蛮社の獄という海外出航と幕府批判の問題を策謀され、渡辺崋山が自殺をし、高野長英は逃げてはいたが殺害される。幕臣たちの間の陰謀と策略と内部闘争がはやくもはじまっていた。このころのインテリはナショナリズムの高まりの中にいた。外国船、軍艦などが日本からも見える所に何そうも来ていた。そのことによる外国の状況に関する情報を仕入れるために多くの人は禁を犯し、投獄された。そういう高まりの中で、幕府の遅れた思想と怠惰な支配体制とその政策、そしてそのことによる民衆と農民の苦しみをつぶさに見ていた大塩平八郎の思想の核の中心にあったものが激発的に出てきたもので、成功することを了とも思っていなかったであろう。そういうことが感じられる。だから多くの人に共感するものを内に秘めていたのではないだろうか。
隠岐騒動
この著によれば、大塩の事件は多くの民衆、農民にある程度支持され同情をもって見られていたようだ。そのため隠岐における明治維新直前のこの騒動も世直し的な騒動であった。松江藩に対する不満が多くの農民にあったようである。新政府が土地、石高などの調査を隠岐の農民代表者あてに手紙を出したものを先に松江藩が開封し読んだことから起こった大騒動で3000人ほどが参加し松江藩の陣屋乗っ取り事件だった。ところが再度松江藩が偽装して復讐騒動も起こった。彼らは武装した松江藩に勝ちようがなかった。その時にこの七右衛門の息子常太郎もつかまりそうになったがうまく逃げた。この隠岐騒動の主役的、指導的役割をこの常太郎は請け負った。また周りからの大塩の事件の時の息子かという期待もあった。その証拠に主要関係者しか持ちようのない檄文などを実家に持ち帰っていた。彼も儒学を一通り学んでいたのでこの時の知識人といってよいだろう。この時彼は35歳くらいだった。維新政府はその後江戸幕府時代の犯罪者に対する恩赦もあり、大阪に彼は戻り医業に精を出すことになった。彼には弟もいて弟は五島列島に流されたが、やはり温かく迎え入れられ順調に育って最後はやはり大阪で大商人になったようだ。
こういうことがなぜわかったか。今ではほとんど入手不可能とは思われるが、明治時代に出版された「大潮余聞」というのが明治に出版された。内容は新聞記者が七右衛門の話を聞いてストーリー化したもののようだ。ほぼ史実という。