資本論を今どのように読めるのだろうか

熊野純彦、マルクス資本論の哲学、岩波新書、2018年1月発行

マルクスの最近の流行
この本は、最近のマルクス流行の中の一冊であると言ってよいと思われる。このマルクスの人気は、アメリカの不動産を端緒として始まった世界的金融危機を背景として、日本では宇野弘蔵の「恐慌論」などが売れたという事もあり、続々と資本論関係、マルクス関係の本が出版されてきている。日本のバブルの崩壊やこの世界的金融危機などを見るにつけ、資本主義は安定していない、また日本の賃金格差問題、かつグローバリズムにより国家間格差が一層広がっていく状況が出ているため、ネグリのマルティチュードなどのこれまでのマルクス主義的革命を見直すマルティチュード(群衆、人々、ホワイトカラーを含めている)による革命の本が出版されもするのである。また彼らは「権力を取らずに世界を変える」という本も書いている。フランスの大蔵大臣であったジャック・アタリの「マルクス」という本もここ近年出版されている。またデヴィッド・ハーヴェイのマルクス経済学的な現状分析的な本も沢山出ている。

この本の内容
これは、マルクスの資本論をある意味では分かりやすく解説している、と言ってよい。資本論というのは副題として経済学批判、と書かれている。その経済学批判というその中身は何か、というところに注意深く言及しつつ要点をまとめている。資本論の中身を要約しつつマルクスの本来の哲学、思考方式を表に出そうとしているところに特徴があると言える。このことは一言でいうのはやさしいが著者の長年の大変な学識の積み重ね、試行錯誤の上に成り立つところの著作であるという事である。一応そういうことは重要なことなので踏まえておきたい。

この本の肝
一番重要な処は剰余価値の捻出のところだ。ここがわかればマルクスが理解できるという箇所だ。。この剰余価値というのは労働者の価値を搾取するところから生まれるものであるという事だ。労働時間の延長とか強化とかそういう事によって生まれるものでそれを資本主義では「利潤」といっている。これによって「近代」資本主義の基本が成り立つという事を非常に丁寧に説明している。
また商品というのは等価交換、同じ価値同士の交換である。この原則が理解されないとはっきり言ってマルクスは理解できない。ここで言っている、価値というのは価格ではない。使用価値、交換価値と言っている価値のことである。使用と交換という個別の問題を捨象した時に出てくる抽象としての価値である。これは人間の抽象としての労働と同じである。この等価交換と剰余価値の説明のところがわかればマルクスの資本論は理解できたといってもいいのではないか。その他の箇所ははっきり言って学生時代に戻らされるようで意味がないともいえる。(本文、価値形態論の箇所を参照ください。)

近代資本主義は何故発展できるのか
資本主義がなぜ資本の原始的蓄積によって拡大再生産ができて、、資本主義を発展させることができているのか、という事を古典経済学を批判的に見ながら分析していく。商品というのは絶対的に必ず等価交換である。そうであるなら、なぜ利潤が生まれるのか、それは労働価値の搾取によるのである。この理論に賛成するかしないかは別であるが、剰余価値という利潤を資本主義はどのように手に入れたかという秘密に迫った。このことはだれも論理的に研究もしていなかったし論理的に主張されもしなかった。私にはわからないがこの秘密へ迫る論理というのがヘーゲル哲学であったという事だ。しかし資本論全三巻がこの論理に従って論理の破綻なく書かれているという事だけでもすごいと言わざるを得ない。

経済学批判の背景
この経済学批判の根底には彼の特有の人間社会についての理想論がある。これは共産党宣言に書かれているというものであるが、この人間社会についての理想から「近代」に特有の資本主義の経済学に対する批判というものが出てくる。要するにアダムスミス以下の経済学者の経済学というのは資本主義、資本家階級の視点から経済現象を分析しているだけであってそれは本来的な見方をすれば転倒しているのである、という事である。そのためここでも最後の章にマルクス描いた遠い将来の理想社会の像の議論となる。この理想社会のイメージというものが社会主義であったり、共産主義であったりするわけである。然し私としてはこの個所に最大の疑念を抱かざるを得なかった。

私の見方
この熊野純彦氏の本を読んでこれがマルクスだとすればいかにその理想的な人間社会というものが間違いなのではないかという重要な疑問が生まれる。若いころには気にも留めない言葉であったが、今では非常に重要な錯誤をマルクスは犯していたのではないかという気にもなる。また多くのマルクス学者という人たちもそこを本当にその点を重要に考えて来たのか、という疑問である。
「能力に応じて(働き)必要に応じて(取る)」という言葉があってこれが著者も言っているがこの言葉にある世界がいかに理想であるかという事を強調している。しかしこれは相当に問題な世界である。簡単にいえば超在庫的世界といってよいのではないか。超無駄がまかり通る世界である。今回のコロナワクチンも接種者が選定される。それは専門家による采配である。これを対比して見るとわかりやすいのではないか。全員には渡りきらないのである。世界60億の大衆には渡りきらない。これを選別する。然しこれは理想社会じゃないからとは言えない。そういう限界が常にある。それが渡りきることがあればそれは超在庫の世界である。専門家と素人、いかにすべてを民主的にやろうとしてもこの知的な差はいかんせんどうしようもないものを予想させる。こうなると官僚が出てくると言うわけである。指導者、官僚というものこれはウェーバーがつとに論じてきた世界である。
著者は何が奢侈品かという事にも触れている。これも哲学者としてはばかばかしい議論である。このマルクスの「能力に応じて(働き)必要に応じて(取る)」ここに彼の真の論点があるとすれば非常におかしいことになりそうである。またこれは生産性が超飛躍的に増加して地球の60億の人口を「簡単」に養えるレベルの生産と在庫がないといけない。養えるというのは、食料だけではない、すべての需要である。

彼の理想社会には疑問が付く。人間理解も問題を内蔵しているように思える。
現在の問題は、香港問題などに現れているように社会主義から自由主義へ戻りたいのである。ロシアの経験もそうである。これについて如何に考えるかという視点がないと読者をマルクスへ導いていくのはむつかしいのではないか。その点についてはそもそもマルクスの考えていたものとは全く違うという事が起こったと言ってる。この言い方は多くのマルクス学者の意見ではあるが。福島の原発は資本主義の深刻な問題として意識している。このことによって資本主義が否定されるべきである、という事が言外に言われているかのごとくであるが、しかし片手落ちのような気もする。私としては資本主義が深刻な門題を抱えているから即社会主義とか共産主義的世界に向かう努力が必要とは考えられない。このマルクスいうところの理想社会、それに対する基礎となる人間理解に疑問が付かないと単なる一時の流行となる。出版界、あるいは学者世界のマルクス主義の流行である。それで終わる可能性はあるだろう。

コメントを残す