日本の社会民主党解党の意味

「社会主義」マックス・ウェーバー、濵島朗訳・解説、講談社学術文庫、昭和55年発行(1980年)ウェーバーの1918年講演に基づく。

社会民主党の衰退、解党、解散について考える。福島みずほ党首がテレビに出ていたが、一人社民党でやっていけるのか?

社会民主党の解党の遠因

マックス・ウェーバーのこの本を今更ながら読んで、日本の社会民主党がこうなるのも仕方ないかなと思うところである。

基本的には、冷戦が終わり、ソビエト社会主義的な国家が崩壊し壮大な社会主義の実験は終わった。悲惨な革命と悲惨な国家経営が破綻して喜んだのはその政治に抑圧されてきた民衆、大衆一般ではなかろうか。結局社会主義的な夢はこの70年程度の長い時期ではあったが多くの人が予測したように終わったのである。この問題を受けて日本の社会党も名前を変えて社会民主党としたのだけれど、やはり結果としては限りなく必要のない政党になっていった。

いったいこの理由は何だろう。

社会主義という問題の概念

社会主義というのは、マルクスの描いた世界のこの資本主義の自然崩壊によって社会主義が必然的にやってくる、またその後には共産主義というものが待っている。これは人間の究極の解放であったはずであるが、結局そうはならなかった。

私が感じる率直な一つの見解としては、人間の解放という神の国を目指す戦いというものをマルクスは描いたところに大失敗があった。批判哲学、批判経済学としては有効であった。しかし誰も知らない神の国があるという事を提言したことによって多くの人がこの説に乗ったわけである。然しそれはなかった。歴史的な大実験をしたが大失敗に終わった。このことが現在の社会民主党の位置づけとなった。共産党がいまだあるではないかという問題は、資本主義がある程度の深刻な問題を抱えているからだ。現在が問題ある状況という事を踏まえて存在している。然し早晩これも衰退の一途をたどることになるだろう。これは問題の状況が経済格差から来ているという事、グローバリズムによる国家間の経済格差という問題もあり貧しい人たちの一定の受け皿として存在してる。これは公明党も同様である。

M・ウェーバーの見解

社会主義の失敗、なぜか、これについてロシア革命が勃発した時期にM・ウェーバーが講演(1918年オーストリアで将校群を相手に)した内容にほぼその理由が述べられていて恐ろしいくらいである。M・ウェーバーがマルクスの本をしっかり読んだかどうかはよくわからないらしいが、その基本的な問題をとらえて離さない目は鋭いとしか言いようがない。

1、マルクスは時代をプロレタリアートと資本家との階級対立とみていたがそこにホワイトカラーという中間層が出現した。また機械の登場によってプロレタリアの統一に破綻が出てきた。

2、ソビエト的中央集中の管理体制というのは、官僚制化を生み出す。仕事=行政はこの官僚の下で行われる。腐敗への道、非能率への道が準備されている。官僚層の脱プロレタリア的性格

3、近代資本主義では、資本家の退場と経営者の登場。株取得の民主化と所得層の広範化。

その他いろいろの条件が出てくるが、一々が納得できるものである。要するにマルクスが描いた神の国は、そのように現実的にはならないし一層官僚制化することによって人間の解放よりむしろ奴隷化が図られるのではないかとウェーバーは考えている。

今なおあるマルクスの人気と資本主義の持つ問題

しかし今なお多くの人(特に知識人は)はマルクス主義に親近感を持っており、そのマルクスの一言一言に注意を払っているのである。それに若き(26歳)マルクスの書いた、「経済学・哲学草稿」(光文社発行、長谷川宏訳・解説)の解説によれば、当時の若きマルクスが今の派遣労働者の問題を言い当てているという解説をしているが社会主義の失敗についてはどう考えるのだろうか。あれはマルクス主義ではなかったという事かもしれない。本当のマルクスとは違うものだった、という事もいえるがしかしウェーバー的な経営、支配という視点が抜けていたのではあるまいか。かつ今なおそういう視点はマルクス学関係者はだれも指摘しないのである。プルードンの民主的労働管理を持ち出す人(哲学の貧困、的場昭弘編訳著、作品社)もいるが指導、決断などはどうするのか、また工場だけが生産の現場では今はないのである。本社の経営企画、営業マーケッティング部門という工場労働者ではない人たち(ホワイトカラー)が基本的には参加している。また工場労働者を含めた工場自体が経営もしているのが現実である。そういう意味では現実の労働者と経営の問題はあまりに大学の学者には分かりにくいだろうと思われる。何かを生産していれば工場が生きていけるわけでもないのである。

又労賃問題も全く問題ないという事はないが討議できるようにはなっている。派遣労働者の低賃金と経済格差は資本主義の大きな問題であるがそれが社会主義でなければという問題ではない。

終わりに

マルクスは革命を一つの梃子として考えていた。時代変革のための方法として、しかしそれが人を解放するものではないことがわかった現在、変化すべきではないか。マルクス主義も。しかしマルクスの訓詁学をしているだけでは何もソビエトがしていたこととかわらない。

マルクス主義あるいは社会主義が批判者としての役割はあった。しかし今は終わったとしか言いようがない。信用がない、実績がない、誰も期待しない。

今残っている我々が頼れるのは民主主義という言葉だけである。民主主義による永続的な改善、改良しか今はこの世界を良くする道はないのかもしれない。

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