「ヴェーバー社会科学の基礎研究」内田芳明、岩波書店、昭和43年(1968年)発行
1923生まれだから、45歳の時の作品といえるだろう。
彼は、「ヴェーバー『古代ユダヤ教』の研究」(岩波書店、2008年発行)
のなかで我が研究史に書いているが、すでに学部の卒論が岩波の雑誌、大塚久雄のヴェーバー特集の「思想」に載った。またその一部が岩波から出たヴェーバー研究の共著として出されたというから、若くして才能を開花させてきたようにも思える。しかし本人は鈍才と思っていたようなことが書かれてある。東京商科大学(現、一橋大学)出身。
ヴェーバーとマルクス
この本は、第4章が「唯物史観とヴェーバーの宗教社会学」、第5章「社会主義的未来観をめぐるヴェーバーとマルクス」、となっている。どちらの章も、要するにヴェーバーとマルクスのぶつかり合う社会観、歴史観、未来観について語っている。またよくよく読むとこの本全体がマルクスを意識して書かれたものであることがわかってくる。というのはヴェーバーという人は非常にマルクスの社会観を意識しており、そのため彼の社会学が生まれたといって良いくらいであるとこの本には書かれている。そのためどこの個所をとってもマルクス問題というものが出てくるのである。
この本をなぜ取り上げるのか
前回、社会民主党の解党問題を取り上げた時に、ヴェーバーの「社会主義」という本を参考にした。この濵島氏の解説も非常に詳しいのであるが、さらにこの内田氏の論文は徹底したもので、解説というよりも研究論文として発表しているもので説得力がある。ゆえに、今更ではあるがこの本を取り上げたい。しかし現行のマルクス研究の方たちはこの種のヴェーバー問題という事には全く頓着しないようにも思われる。こういう研究業績を踏まえたマルクス論があってもいいのだがそういう著書はほとんどない。また最近のヴェーバー研究者もこのマルクス・ヴェーバー問題というのはすっかり無かったかのように触れられていない。(現代思想12月号、没後100年マックス、ウェーバー特集でもその種の論題は皆無である。)これも学問上の成果の継承という意味では残念なことと言えないだろうか。
またこの本は1968年発行というように今からすると非常に古いものではあるが、彼がその後書いたヴェーバーとマルクス」(1972年岩波)「歴史の意味をめぐる闘争」(2000年岩波)、最後の大著「ヴェーバー「古代ユダヤ教』の研究」(2008年岩波)と続いてくるが、どの本もマルクス・ヴェーバー問題であり同じ問題をめぐっている。かれのヴェーバー研究、とくに宗教社会学研究の深化によって思索が深められてきた成果である。この基礎研究という本は彼の問題意識の端緒となる論文でもあり実際に今読んでも納得できる内容となっている。これから後続の本を読む人にも重要なヴェーバー・マルクス問題の始まりの文章である。
この、4章、5章の内容
この本の全体を要約することはむつかしいので、私なりの緊急性を鑑みてこの4,5章だけを今回は扱う。
4章、唯物史観とヴェーバー宗教社会学
簡単に要約すると、マルクスは資本論その他で、近代社会の経済的運動法則の問題を暴露することにあった。それが、剰余価値による搾取問題である。それがゆえに近代資本主義が発展できるのである。然しこれは基本的には唯物史観的には前史である、という。私経済、私的所有などの前史が終わると未来史がある。この未来史は私有財産の廃棄、生産の社会化などのよって社会主義、共産主義へ向かう方向性を示しているが、これは、著者によると論理的に越えがたい飛躍がある、という。さらに続けて、このマルクスの発想にはユダヤ、キリスト教的伝統である「メシアニズム」「預言者主義」「終末論的信仰」の伝統に立っているがゆえにこの論理が認められているのである、という事になる。内田氏はこの、ユダヤ・キリスト教的文化世界の文脈を(ヴェーバーの宗教社会学からの研究から)マルクスの世界を読み取ることによって、マルクス主義の意味解明と限界を見ていくものとしている。
著者によれば、マルクスの用語である「自然法則」、「必然性」、「運動法則」、「自然史的過程」などの用語もすべてそのユダヤ・キリスト教的文化世界観からくるところの言語であるという。
5章、社会主義未来観をめぐるヴェーバーとマルクス
4章とは別の章となっているが基本的な問題意識は4章の流れを継承しているのである。
この章を象徴するような言葉があるので下記の通り引用したい。
p362カール・レーヴィットの厳しい指摘がある。
何故レーヴィットなのか、言えばヴェーバーの研究を宗教社会学へ変更させた人物である。
そのレーヴィットの指摘の部分を引用する。
”マルクスの「この信念(資本主義が崩壊し社会主義、共産主義に移行する)には、メシアニズムの根本的なもの、つまり勝利の前提としての、屈辱と贖いの苦難を、自ら進んで肯定するという面が欠けている」という点である。「プロレタリア共産主義は、十字架を伴わない王冠を要求する。つまりかれは、この世の幸福によって勝利をえようとする」。この問題は全体としてマルクスにおける唯物史観と革命の思想の最深部における盲点をつくことになるであろう。資本主義の社会の「疎外」や「搾取」を人間性の尊厳と正義の観点から批判するというマルクスの思想の背後もしくは根底にあるはずの精神的立場は、自己の物的利益に終始せんとする自己中心の利己的立場ではありえない。なぜならそれは現実的には使命のために殉ずる犠牲的精神なくしては到底実現されないであろうから、、、、”(「 」の部分がレーヴィットの引用である。他は内田氏の言葉である。)
内田氏はこのレーヴィットの言葉を要約して「つまり、共産主義的エートスを持った人間の犠牲的、献身的活動と指導と、がなくしてはその実現はあり得ぬという事になる。」と語る。
これを読んでなるほどと思う方もいらっしゃると思う。本来的にはこの人間の変革なくして共産主義も社会主義もあり得ないという事を語っている。ほかにもいろんな論点が示されているが、この共産主義的エートスという言葉に集約されているように、そういうエートスを生み出す素地がなければマルクスの論理である革命は起こったとしても社会は実現できないという事である。ここに社会主義の大きな欠陥と問題がある、という事がある程度はっきりしていると思われる。実際、ソビエトの官僚的な腐敗、中国は日常茶飯事の汚職、賄賂の横行、北朝鮮など人間無視的世界など、社会主義が色んな道をたどるという事とは全く別に現状の社会主義国は人間の倫理問題はなおざりにされている。これは香港問題にも現れている。最近中国のト・小平の言葉が朝日新聞に載った。(今手元にないが朝日新聞12・23夕刊のはず)天安門事件に関して中国が国際的批判を浴びているときである、国権は人権に優先するという趣旨のことを語っていた。これも倫理問題が排除される典型である。
最後に
こうしてこの種の問題はその後の内田氏の著作で深化されてきており最後の古代ユダヤ教でその集大成が行われている。まともに社会主義の問題を正面から取り上げた研究論文というのは数少ない。そういう意味では価値ある学的業績といえるのではないか。
また今さらにヴェーバーかと思われる節もあるかと思うが、現代を導く一筋の道はこのエートス問題ではないかと私は考えているからである。マルクスでは批判できないある一面が現代には重要となってくるのではないか。今後さらに内田氏のテーマを掘り下げていくことになるかもしれない。