ソーロー作「森の生活―ウォールデンー」神吉三郎訳、岩波文庫
(WALDEN、OR LIFE IN THE WOODS 1854 Henry David Thoreau)
ウォールデンとは地名、有名なウォールデン湖がある。(アメリカ合衆国マサセッツ州コンコードにある。ボストン北西40キロメートルあたり)また現在は多少観光地になっているのか、ソーローの住んでいた森の生活の小屋が再建されている。
1概略
この本は、1845年(アメリカ独立記念日)から2年2か月自分の住んでいたコンコードの南、2.5キロの地点にあるウォールデン湖のほとりで森の生活をしたことについて書いてある。年齢から言えば彼が28歳から30歳にかけてである。アメリカ創世期の古典といわれる本である。(アメリカ創世期という言葉は、現地人を蹴散らしてヨーロッパ諸国から侵略という移民が始まった時期である。)
状況だけ言えば、小さな木造のたぶん一部屋しかない家を自力で作り(今でいうログハウスのようなもの)、(ウォールデンについてはグーグルマップでみるとウォールデン湖、またそのすぐそばにソーローのすんでいた再現された小さな小屋などの写真がある。湖は結構大きい。61エーカー、周囲は1.7マイルというので広さ25万平米、周囲2.7キロ、周囲2.7キロといえば約1時間もあれば歩ける距離ではあるので大きな池といったほうがいいのかもしれない。)そこで何とか自作した豆や芋などを食べて自活した孤独な生活である。しかし、町や村から隔絶しているわけではないので、たった一人きりでだれとも会話もせずに生活していたわけではない。結構な人が訪れたり自分も町に買い出しに行ったりしている。だから孤独な生活だということは紛れもない事実ではあるが、北極のようなところに住んでいたわけではない。人里は案外近いところにある。。その2年の歳月の間に感じた様々なことを書いている。だから孤独を生きるというのとは違っている。最初のほうに書いてあるが、彼自身は2,3週間働けば1年分の生活ができるといっている。だからなぜみんな苦労してそんなに働くのかと。こういう単純な生活をしてみることによって何が得られるのか、何が知りうるのか、なにがかんじられるのかという人生上の重要な発見をしたいということなのかもしれない。また修行僧でもない。
(ついでに)
ヒロシです、ではないが、現在日本ではやっているキャンプ生活の先取りといえなくもない。しかし現在流行のものは、雑誌など見るとわかるが何もかもいろんなものを買わないとキャンプができない。都会生活をキャンプに持ち込むなんてたぶん彼にはない発想だろう。何せ時代が時代で便利なものはない時代だ。アメリカではほとんどのものを自作しないと生きていけない時代だった。のこぎりとかやかん、鍋はあったようである。水は池から汲んできたと書いてある。うまかったらしい。また夏の氷用に春先に切り出して商売をする人たちもいたようだが、運ぶ途中で溶けてしまうとも書いてある。なお溶けやすい氷というのは中に気泡が入っているものらしい。日光中禅寺湖、あるいはその周辺でも同様のことが行われているようだ。
2,この生活の目的
この最初の目的は何だったか、人生を知りたいという欲求であったという。本当の人生を知りたいがゆえにこのウォールデンに来た。2年いたのだが、何かこの自然を味わいつくしたのか、知り尽くしたのかわからないが、彼の所期の目的を完了した、つまり人生とは何かを発見したのかもしれない。それで忽然と都会に戻ったのである。
3,書いてはいないのであるが、この本を読んで感じることがある。
1)彼の周囲はすべて彼の財産であるがごとくである。
まず、我々の目の前に広がる世界は我々の財産であるということである。これは勝手に処分はできないのではあるがみんなの共有の大事な財産である。それは宇宙であれ、この湖であれ、景色であれ、そこの水であれ、たまにやってくる動物であれその動物の生活や世界であれ、みんな財産なのである。この財産を彼は、自分には所有権はないが知り、味わい、見、考え、そして発見し、会話し、歩き、楽しみ、そして生活する。彼はそれが自分の財産のごとく考え、また使用する権利を持っているが如くである。何も所有していないが富める財産家ということである。そういうことから考えると我々の住んでいる町や村の景色や人々も互いの財産であり、私の存在もあなたの財産でありあなたの存在も私の財産である、ということが言えるのである。所有権や処分権はないにしても、互いの存在は互いに財産となっているのである。毎日通っている電車の通勤や駅の混雑もかけがえのない財産なのである。こういう景色、騒音、混雑何もかもが財産である。ウォールデンとは違うがたくさんの人たちと同じ場所で暮らしている、そのこと自体が大きな財産であるように感じられ、大切にしなければならに様な気にさせられる。たぶん書いている本人もそういうことを感じたのではないだろうか。今までそういう観点で町や景色を見たことがなかった。日々のウォーキングの時にはさらに一段と感じられるようになってきた
彼の嫌いなものはたぶん金の使い放題のオリンピック、一位二位を争うようなスポーツに何の意味があるかと、また会食、パーティ、気取った会話、不要な飾り、グルメ的思考、虚飾、着飾ることなどか。賞金の額の大きいスポーツ、イベントみんな嫌いだろう。
2)彼の生活の仕方
彼の知識は大変な博物学者に匹敵するだろう。また彼は測量技師だそうで距離に関しては非常にうるさい。池の深さを測ったり、隣の家や村までの距離とか、池の中の地形の形を探ったり、鳥の飛翔する高さがどのくらいとか、氷の厚みはどの程度とか距離に関しては結構細かい。(フィート、マイル、ロッド、エーカーなどの単位があっちこっちで出てくる)たぶんマルクス描くところのルンペンプロレタリアートよりも一見すればさらに貧しそうな生活をしているのである。しかし彼は貧しくない。金持ちではないが財産がある。彼の周囲にある自然と宇宙は彼にとっては大なる財産である。また生活も計画的であり金銭の計算もできている。孤独な修行僧でもなく計画して生活できる近代人である。(ある部分ロビンソンクルーソーに似ているかもしれない)どんなものでも毒でなければまずいものも食えるとある。料理もできる。小麦の量を図ってパンを作り違う種類の小麦を混ぜておいしいパンを作るなどもできる。これはデューイのプラグマティズム的といえるかもしれない。ここはよきアメリカ的だろう。さらに彼の小屋を作る時のイメージは、「大草原の小さな家」で最初に家を作る場面があるが、ほぼそれと同じ感じであろうことは想像できる。
4,アメリカ創世期の古典としての地位
この本が古典であるゆえんは、われわれに自分の人生を一度振り返ってもっと単純な生活をしてみたらどうかと勧めている。ベンジャミン・フランクリンとは全くの対極にいる人である。(独立志向、個人主義、理想主義は似ているところがある。)何のための金であるか、何のための労働であるか、何のための便利さであるか、そういうことを一度断ち切ったり、振り返ってみて本当に人生で必要なことだけをやったらどうなるのか、という提案である。ものすごくラディカルなところに彼はいる。
5,エマーソンとの出会い
彼自身はいろんな人の世話によりハーバード大学で学んだ。そのハーバードでラルフ・ワルド・エマーソン(思想家、宗教家、哲学者)との運命的な 出会いがあり、死ぬまで関係があった。しかしこのハーバードでの学問というものもその時代の最高の知識を提供しているようだ。かれの引用している古典ギリシャの詩やラテン語の詩など学生時代にそういうものを一通り身に着けてしまうレベルではあった。
このエマーソンとの逸話がある、それは「市民的抵抗」にある。メキシコ戦争と奴隷問題で州政府に税金を払わなかった。そのため監獄に入れられた。エマーソンが見舞いに来てなんでそんなところに入っているのかと聞かれたが、あなたこそ早くここに入りなさいといったというのだ。この逸話は非常に面白いし、ソーローの独立主義、自由主義がはっきり出ていると思われる。
6、最後に
ぜひ一読されたし、である。この本を読んでいて簡単に読了できると思ってスタートしたがなかなか終わらない。案外長い本である。また自然観察の妙については、本人にもある程度の自然科学や博物誌の知識があったと思われる。そういう意味での健康な近代人が人生の意味を知りたいという人間の本質的な要求に贅沢に向き合った著作といえよう。
この種の本は日本には少ないというか似ている本はあるが全く違うだろう。その昔で言えば櫛田孫一の随筆、この方は山歩き専門、かつ哲学者。太田愛人の「辺境の食卓」「羊飼いの食卓」などが多少似ているかもしれない。太田は信州の牧師生活のなかの田舎生活を描いた。その後は思想史に専念している。