中国知識人の自己理解の苦しさ

「思想空間としての現代中国」汪暉(ワン、フイ)村田雄二郎、砂山幸雄、小野寺史郎訳

岩波書店、2006年発行

汪暉(ワン、フイ)1959年生まれ、南京大学卒、精華大学教授、ワシントン大学、コロンビア大学、香港中文大学、カリフォルニア大学、ボローニャ大学などの客員教授で人気のある方のようだ。たぶん日本では他の本での翻訳はなく彼の著書としては日本初である。

またこの本は東京大学に2005年から2006年3月まで客員教授として来日、講学した時の縁で出来上がった。論説自体は1994年から2000年までにかけて書かれたものだ。

この本は何を言おうとしているのか

「思想空間としての現代中国」といういかめしい表題が付けられているが、要するに現代中国とは何か、このように急激に変化している中国の文化状況、経済状況つまり自分は何かという問題を巡っている。(自序)これはなぜか、一つにはマルクス主義の思想だけで現代中国はわからないという事である。マルクス主義では現代中国は社会主義でかつ成功しているという事であるから、それ以上にこの中国を分析できる理論はないのである。中国はマルクス主義の完成形の途上という状態の中にいるのでマルクス主義がある意味終わっているのである。

この本の特異な所

この本は、中国人としては珍しく、思想史の中で、マルクス以外にもマックス・ウェーバーやハバーマス、フーコー、ウォーラーステイン、ブローデルなどを取り上げている。ヨーロッパの著名な学的、思想的成果を取り入れつつそれを批判的に解釈し現代中国の世界を自分の言葉でしっかり見定めたいという事である。とくにこのウェーバーについてはまさか中国でこのウェーバーが評価されるという事がありうるのかという驚きである。これを読む人はみなそう思うだろうと思う。

内容

1,中国の現代思想の流れ;毛沢東以後の世界でのマルクス主義の変遷、どこに重点を置くか、批判哲学としてはどうなのか、毛沢東はどのように批判されるべきなのかなどをめぐってマルクス主義としての変化、その中で急激な経済発展している現代中国をマルクス主義的にはどう見るのかというようなことである。そのことによっていろんなマルクス主義があるという事だ。

2,1989年問題である。これは大衆を動員して大変な運動となった事件である。このことをめぐって書かれている。自分が関係したかどうかは書かれていないが、多分30歳のころであるし、大学にいたとすれば関係はあるはずだが、ここではこの運動の価値や意義を理解できていなかったと書かれており、なぜ理解できなかったのか、という論点で話は推移する。しかし知識人にはこの事件は大変な衝撃を与えたようだ、という事がよくわかる。ここには現代中国での様々な社会的問題が噴出しているさまが描かれている。農業と都市の格差問題、社会的所有問題などをめぐってその事件前、事件後がどのような展開があったのか、というある意味息苦しくなるような話ではある。

3,最後はウェーバー問題である。これはマルクス、ウェーバー問題とは多少違うのであるが、ウェーバー理論というのは特にヨーロッパ近代をめぐっての理解である。この近代概念というものが著者がある意味苦しんでいるところではないか。中国にとっての近代とは何か、また言われるところの近代とはどういう意味でなのかという事を通して自己を知りたいという発想がここに熱く、充満している。「プロテスタンティズムと資本主義の精神」、「儒教と道教」を主として引用している。特に注目すべきところは、近代(この本ではモダニティと訳されている。)というヨーロッパ発生のこの言葉を疑ってかかる。中国にはこの言葉はないそうである。後書きなど見ると、普通は近代のことは「現代」というそうである。ここからして中国的には近代という言葉を疑問視せざるを得ないという。またウェーバーの使っている「合理化」という言葉これも中国にはないそうだ。ゆえに、この「近代」だけでなく「公」「社会」「国家」「個人」・・・・等々の言葉はほとんどがヨーロッパから輸入された言語ではあるが、翻訳だけの問題ではなく中国の歴史と文化がこの言葉を使っているという事からして実際どのようにヨーロッパとこの言葉の概念の違いがあるのか、中国としてどのようにこの言葉は歴史的に使われているのかという事を知ることが中国の思想研究の中心になるだろうという事を言っている。(このことは日本でも言われていたことでもあるし、同様の問題はあるだろう。)

読後

今後このような日本でも読まれることになる知識人が沢山いるのか、いないのかという事が気になる。またこの本の1989年問題は中国では未発表のようである。また中国での知識人の役割は日本とは全く異なっているかのようでもある。政府筋のご意見番としての知識人というのが本来のあり方のようであるが、この方は批判的知識人となっているから、そうではないのか。それとも政府内では本来政府の取り上げた思想でなければ許されないという事でもなく案外厳しい意見も検討されているのか、この中国の事情については私としてはよくわからないとしか言いようがない。しかし世界と話の出来る知識人という存在がある、というのは世界にとっても中国にとっても、日本にとっても重要なことである。

(翻訳の問題か、ある意味読みにくい本である。訳語が中国と同じ漢字があるが違う意味であるとかまた本質的には中国では問題視されるようなことは書けないという事もあってなのか読んでいてスーと頭に入っていくような文章とはなっていない。)

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