イマヌエル・カント「永遠平和のために」中山元訳、光文社古典新訳文庫、2006年初版(原著は1795年)
なぜこの本を読むか。
まずカントの本はむつかしい。突然抽象化が始まる。それも極端でさりげなく飛躍していくので訳が分からない。実践理性批判などの批判論文などは歯が立たない。しかし、この本はやさしそうに見えるしかつ短い。それでカントの本は一冊でも読もう、ということとこの表題となっている、理想主義的なテーマから一度は読んでみたい本の一つであった。また中山元訳は読みやすそうである。
この本のめさず所
まさに戦争をやめて完全な平和というものを達成しようとする非常に現実的な問題意識からこの本は書かれている。だから読解的には目標がはっきりとしており理解しやすいという事の上に、短い。これはある部分は捨象している。端折っているだろう。他の文書を読めばわかるようなことかもしれないが、1冊しか読まない人間にはどこを端折っているかはよくわからない。
本の中身は
簡単にいうと、軍備の廃絶、国際連盟の思想、法治国家と市民の健全な育成、平和条約における秘密主義の撤廃、公開性の絶対的な必要性などについての案が示されている。特にこの中で国際連盟的なものを想定しているところは天才カントであろうか。また現在問題になっている移民や難民の問題を世界市民という概念で救いとれそうな案も出ている。これはグローバル市民という言葉を使ったアントニオ・ネグリ(帝国)と共通しているところがある。ネグリにとってはヨーロッパの夢の夢といっている考え方である。
一方でカントにとっては女性と子供は市民ではないらしいが、それはこの時代の制約と考えられる。とすればこの世界市民、突然彼はこういう形で飛躍するのであるが、この各国の市民権から世界市民という考え方に移行すれば世界中の人間は市民権を持てるという事になる。これは理想ではあるが、はっきりとした将来の目指すべきターゲットを指し示すという意味ではありがたいのではないだろうか。カント以後世界市民問題はどのように展開されてきているかはわからないが、国連はそのような動きには少しは連動しているのではないだろうか。あるいは建前だけか。オリンピックもどこの国にも所属しないそのようなグループが参加している。これはそういう世界市民的な考え方を先取りしている。現代はこの世界市民、グローバル市民への生みの苦しみの時代なのかもしれない。この考え方が各国の憲法などに取り入れられるようなことがあれば、はっきり言って戦争は完全になくなるだろう。アントニオ・ネグリの言わんとしてるところは経済はすでにグローバル化して国境はなきに等しい、と。かつこの経済に携わる労働者は権限さえ乗り越えれば世界へアクセスできる。だかららあと一歩まで来ている、と言っている。またネグリはグローバル市民権というもので市民保証をしようという提案もしている。一応現代までこの考え方は生きているのだろうか。
独特な論理の進め方
彼の考え方は、人間の持つ自然性をうまく理解して使うべきだという考え方である。例えば民衆には法律を守らせたいが、自分だけは法律の制約を受けない者になりたいという人間がいるとしても、そういう人間も人間の自然性から自分も法律を守らざるを得なくなるのである、という事例を出している。(悪魔の世界にも法律が必要となる。)つまりこの自然という性質をうまく理解し使いながら法の整備などやればおのずとその平和の可能性が出てくると言うものである。楽観論ではなく悲観論でもない。理想論でもない。特に国際法は穴だらけなのでこの国際的な国家間の連合と国際法の整備によって永遠平和の道につながると考えている。またここで使われている「自然」という思想は「自然状態」の自然と「自然の意図するところ、自然の計画、自然の法則」という意味での自然の両方の語義として使われている。特に「自然の意図するところ」というのはいわないが「神の摂理」という考え方があると思われる。これは、マルクスにもあって歴史の法則というような言葉になる。
最後に
これは我々の課題である。平和主義というものを追求することはマルクス主義でもなければ右翼保守でもない。平和さえあればいいのか?という声も聞こえてきそうである。そういう意味ではマルクス主義からは敬遠されていたのかもしれない。しかしここに書かれていることは、非常に重要であるし、我々も考え直さなければならない。遅すぎることもない。また彼は道徳、理性、法を非常に信頼している。彼の哲学の背骨である。