大岡昇平「少年」(自伝)に表れる東京渋谷、青山、高樹町そして少年の惑い。

大岡昇平「少年」講談社文芸文庫、1991年(初出1973から1975年、文芸展望連載)

この本は、この4年前に「幼年」というのを書いている。その続編であろうが、著者はこの「少年」が本編と思ってくれという。(後書きにある。)

大岡昇平1909年明治42年生まれ、1988年昭和63年没、だから64歳くらいの時の作品という事になる。

内容的には、小学校から中学校の時代、年齢的には10歳あたりから16,7歳くらいか。この時代の自分の住まい、渋谷と青山の近辺にあったようであるが、そのまだちょっとした田舎であった渋谷、青山という半都会の中の少年を自伝的に描いたものである。

なぜこの本を取り上げるのか

最初は「野火」などを取り上げる必要もある。しかしこの作家は僕の良く知っているほかの作家や詩人や広い交友関係がありそこが彼の自伝的なものを面白くさせている。例えば戦争直後に日本に帰ってきてすぐ鎌倉の小林秀雄宅にいき、彼と議論する。その時は自分は勝ったと思ったというようなことを書いている。戦争を知らない小林と俺では違うんだというようなことを書いている。(徳間文庫「わが復員わが戦後」)そういう事から彼の自伝には非常に興味を持った。(若いころからの小林秀雄、中原中也、富永太郎、島木健作などの広い交友関係)

親は株でもうけたために、この金持ちが住んでいる渋谷の一等地に住むことになったという事から、この地区の事情を事細かに書いている。今では彼の書いた中では公園などは残っているようだが、水道をひいていた川とかは地図上ではもうわからないくらいである。

彼のキリスト教信仰について

彼は青山学院中等部に入りそこで信仰に目覚めるとある。聖書を読み、祈ったらしい。所が夏目漱石を読んだあたりから、1年位で信仰から遠ざかる。信仰を捨てたと言っているが、捨てるほどの決断が本当にあったのかどうかは疑わしいと考えざるを得ない。ある意味覚悟の上での棄教だったとは思われない。しかしいずれにせよ信仰から離れた。著者は自分のこの時期における非常に重要なこととしてキリスト教信仰を上げているのでそこが一つのこの本の重要なモチーフであろうと思われる。当然青山学院という事から礼拝もあり説教も聞いていたのでそういう影響は多分にあったのだろう。しかし、そこでの悩みや煩悶が大きかったようには決して書いていない。然し、この自伝を読むとキリスト教信仰に関しては良い指導者がいなかった、という感じがする。環境といってしまえばその通りだが、青山学院のキリスト教に問題があったかもしれない。ミッションスクールというのはみんな多分今でも問題を抱えているだろう.

また内村鑑三に出会っていればまた違っただろうという事を書いている。さらに言えば「野火」ではキリスト教の神が出てくる。そこで彼は悩み苦しむという事になる。だからかなりの時期までこのキリスト教にはこだわっていただろう。解決しないまま老年になったか。なお、中学時代に聖書の中のパウロの言葉について質問している。それは友人の外山五郎(この方は将来牧師になった。また林芙美子がフランスまで追いかけてきたという事で有名な男性)「我かつては律法なくして生きたけれど、戒め来たりし時に罪は生き、我は死にたり」という言葉の意味を質問したが答えられず、がっかりしたようなことを書いている。しかし、しかし、そんなことを覚えているのだろうか。そんな細かい50年前のことを。疑問である。これが本当であれば、彼はこの言葉が非常に長い間ひっかかっていた、という事だろう。

関東大震災

それより、注目をひくのは関東大震災のことである。最後の最後の方にこの話は出てくる。どうも渋谷地区は被害がさほどなかったようで、この被害を受けて困ったことはあまりなかったようだが、この震災によって、銀座や下町の有名店が続々とこの渋谷に出てきたようである。それは、この復興には最低でも4年かかると言われていたので、そのころの有名店はこぞって新興地となる渋谷界隈を選んで引っ越しをしてきたようだ。結果としては復興に4年はかからなかったようだが、いまの渋谷の発展を考えるとこの震災がきっかけだったのではないかと想像させられる。

交友関係

また彼の交友関係を見ると、やはりある程度の金持ちが周りに住んでいた、という事と関係すると思われるが、ハイクラス(財力;家の大きさに現れる、また知力;有名大学卒業の官吏や学者)の人たちとの付き合いが多いという事がわかる。少年時代に、影響を受けやすい時代にレベルの高い人たちとの関係があった。そういうことによる大岡少年の頭脳は相当開発、啓蒙、刺激を受けたのではないだろうか。富永太郎、頼山陽のひ孫か系譜の友人とかなどがいる。また現在ではほぼ無名となって忘れられているような作家や文人などと同級だとか同窓というようなことも多く、よい影響を受けてきたのではないかと想像される。

この自伝の注目点

要するに調べぬいたという事である。自分の少年時代の渋谷近辺の地誌、渋谷区史などを徹底的に調べ上げる。また友人知人という人たちには再度あってみて確認をするという。そういう細かな事実を無いがせにせず、調べるという態度が徹底している。だから煙突がどのように見えたかなどに非常にこだわっている。こういうところはいかにも小説家である。渋谷や青山に詳しい人は彼の書いているところを歩いてみることもできそうである。ある意味の東京散歩である。

結論的に

小説家としては非常に近くにいい手本なり、啓蒙してくれる人が多く、この職業につくにはいいところに住んでいたなという事である。しかし彼が書いているが、自分のアイデンティティというものにこだわったことがなくいまだにわからないでいる、そのためにこの自伝を書いている、とある。そういう事から断言はできないが、思想的には大きな迷いの中にいたのではないかと推察される。中原中也や、富永太郎という夭逝した人たちに憧れたりしている。中原中也などは生活破綻者である。明治以降の作家になる人は男女関係で苦しむことになり自堕落な生活をする場合が多い。まあほとんどといってもいいくらいだが、周りにいい手本がいたので、彼も例外にはなれなかった。やはり文士系列に過ぎないのか。地に足のついた生活感とか健全な思想というのは少ない。健全な生活というものは作家からは出てこないのか、という疑問が浮かぶ。この「少年」時代にもそのことがよくうかがわれるのである。この対極にあるのが金達寿だ。(「アリランの歌」から)

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