中国人の目を通してみた南京大虐殺事件

堀田善衛、「時間」岩波書店(岩波現代文庫所収、辺見庸解説)2015年発行(から2017年まで5刷)初出、1955年新潮社(ウイキペディアによると1953年発表らしい)この本は、堀田善衛が1918年生まれだから35歳くらいの時の作品である。(富山県高岡市出身、慶應大学仏文科卒、伏木港の廻船問屋の息子というから金持ちだっただろう。)

この本の内容は南京事件(1937年12月から38年2月頃に起こった、南京占領時の例の日本軍による大虐殺に関する事態)を中国人という主人公の目を通して書かれたものである。中国人主人公の日記という形で物語が進行していく。日記というより独白である。この大事件の当事者である主人公からすれば、一人称的語りではないと物語れないものなのかとも思う。これは大岡昇平の「野火」もそういうものである。語り口が冷静で大岡と堀田の作品は文章が似ているような気がする。短い文章を重ねていくような手法なのか、また堀田は中国語ができるのか、または漢詩に通じているのかいずれにせよ漢語が多用されていることもあり文章はきびきびしている。こういう文章を見ると達意の文であると思える。

物語の構成、

南京占領時の年末から年初にかけての凄惨な事件があり、その後南京占領が落ち着いてきたときの事も書かれている。1937年11月30日から始まり、1938年10月3日で日記は終わっている。物語の内容主人公は南京事件で銃殺刑で殺されかかったのだが、偶然死なずに済んだ。その前後には自分の子供を殺され、奥さんは自分の目の前で強姦され、殺される。親類は遠くに逃げた兄と近くで日本に媚を売るおじがいる。また親戚筋に当たる姪が学生で共に暮らしていたが彼女も強姦されたが助かっており生きていることが後半分かる。ところがそういう過酷な体験の中で自暴自棄なのか麻薬中毒になり体はボロボロになっていた。自分は元居た家が大きく財産などあったものだから家を守ると称して一人でいたところ日本の軍隊の情報将校に接収される。そこのボーイとして働くことになる。また彼はスパイ行為をしており家の秘密の地下で電文を打っているという設定である。

全体として何を言っているだろう。

一つは日本軍の愚かさ、そしてこの皇軍として恥ずべき戦犯行為に対する批判的視点である。当時は日本人の多くがこの事件のことを知らなかったらしい。もう一つはただの人間として、中国人としての敗戦の中で生と死が目の前にあるという状況で何をどんな感じを抱かせるのか。どんな考え方に陥るのか、どんな考え方がいるのか、という事。危機の中にある人間の人間としての生きる力、生きようとする力がどこから出てくるのか、という事も重大なテーマとなっている。「全く孤独で無電機に向かいキーを叩きながら、滑稽なほどに根源的なこと、つまり神とか永遠とか、また自然や生命や人間や愛や、それらの織り成す劇のことなどを考えねばならないのだ。、、、、危険な、瞬時に処理しなければ命にかかわるような仕事を持つ人間こそ、、如上の永遠なる事柄についてのはっきりした認識が必要なのである。」と主人公は語っている。結局、日本人としては、この大虐殺事件が誰がその責任者であるか、なぜ起こったか、どんな結果であったのか、という事も非常に重要な、逃げられない点であるが、一方で、さらに重要なのは自分は何者であり、何のために生きているのか、そういう愚かな日本人のゆえに自分も愚かなものになるのか、虐げられていていれば奴隷的精神になるのか、自分は本来的人間としての自分を取り戻すために本当は何が必要なのか、という敵味方を超えたある種の普遍的な思考へとたどり着いているようにも見える。


結論的にだから、

ちょっと辺見庸の解説は南京大虐殺のことに関して日本人は忘れている、むしろなかったことにしているというような自虐史観、歴史修正主義史観について批判的解説をしているが、それはその通りではあるが、それが作者の本意ではないだろう。中国人の目を通して人間を見つめ直しているのではないか。特に映し出される日本人の人間としての本当の問題を突き付けているように思える。そうでないと単に歴史である。歴史という時間を根源から反省し人間を回復できるのかという問いである。それが文学作品にしている所以なのではないか。フランクルの「夜と霧」に通じる。読了2時間半くらいか。

コメントを残す