「怒りの菩薩」、陳舜臣、集英社、1985年発売。初出は1962年。
これは陳舜臣の初期のミステリーの中の一冊である。
なおこの小説は2018年8月に台湾の公共放送でテレビ化されて評判のドラマとなった。題名は「憤怒的菩薩」、多少原作と違うようだが趣旨は同様で、台湾の複雑なナショナルアイデンテティを描いているという事だ。このドラマは台湾に対するステレオタイプな見方を覆したかったと監督は言っている。
私としては今頃なぜこの1960年代の小説がそれも台湾でドラマ化されるのか多少不思議であったため興味をそそられて読むことになった。
1946年ごろの台北で起こった殺人事件を扱っている。殺人事件自体はフィクションである。しかしこの時期にはありそうな事柄である。これは歴史の一例のような事件であって、単なるミステリーと呼べないものではないか。ひいき目に陳舜臣の本を読むと日本人に対して娯楽作品で教育しているような感じもする。ある意味での啓蒙だ。
この作品の時代
蒋介石率いる国民党が台湾を中華民国とし、その後共産党に追われて蒋介石が重慶から台北にやってきた時代である。「犬が去って豚が来た」と言われる時代。この蒋介石政権にある意味打撃を与えたのが汪兆銘である。南京に汪兆銘の政権を作り主席となった。これは日本の画策もあってそこに暗躍したした人たちが台湾でぶつかり合う、という生々しい問題が発生していたころのことである。またその汪兆銘(汪精衛)政権に協力したものは漢奸といわれ台湾では逮捕され処刑までされる。逆賊である。
物語
日本が戦争で負けて、日本在留の台湾人が続々と船で帰る。多くは徴用工できた若い人たちであったという。主人公も台湾人で日本で結婚して漸く台湾に戻れることになりこれが新婚旅行であるような感じの船旅で基隆港経由台北に到着する。このころはまだ台北では日本兵も武装解除状態で、500人から700人くらい基地で日本への帰国を待つ時期でもあった。
夫婦で実家に戻ってみると奥さんの実家陸家とその近くの林家の両方の長男がどちらも死んだことになっている。それは中国で台湾革命同盟会というのが上海に設立されていてそこに結構な若者が日本の目を逃れて参加した。反日の民族主義的団体である。二人ともこの団体に所属中に陸家の長男は火事で死んだ、林家の長男も遺書まで残して死んだという事である。
台北でまず、趙百文という汪精衛政府に寝返った大将が殺害される、その後川崎という日本の少佐が殺されるという事件が起きる。彼は汪精衛の政府と関係あり、その工作をしていた。さらにその後死んだはずの林家の長男は実際には生きていて台北に戻ったところで再度殺される。これらの事件を見ながら、結局何が起きているのか。
これがこの小説のミステリーの部分である。
要するに日本の工作部隊が動いて汪精衛の政権を助けることによって蒋介石の中華民国を弱体化させようという工作があった。その一つが趙百文将軍だった。これを支援したり工作したりした人たちは発覚すれば漢奸といい逆賊といい中華民国からは死刑扱いである。これに中華民国内部に潜む工作員、が絡む。この工作員たちが黙って生きてくれれば何の問題もないが、そういう裏切りの工作をしたうえで中華民国の中でも要職につくものもいる。そうなると内部分裂もあり脅しや脅迫が出てくることになる。その関係者の殺し合いであった。
この物語からわかること
1、新政府台湾では、重慶出身者が重用されたという事。
2、日本政府に加担したもの(皇民化運動に加担)は戦後非常に肩身の狭い思いと犯罪者となる場合もあった。
3、汪精衛の政府に加担したものは死刑であった。(漢奸)
4、敗戦日本は台湾内で政治的力もなかったはずであるがまだそこで暗躍する人がいたし、過去の暗躍の影響を受ける人もいる。
5、台湾・中華民国の内部にも二重スパイ的な人物が政府の要職に最後まで残った可能性もある。
6、チャンドラブース(松山空港で事故に遭遇、死亡、その時大量の宝石類を持っていたという)の例にあるように台北というのは一時的に財宝を隠したり留め置いたりするのに都合の良い場所でありそういうたぐいのうわさがひっきりなしにあったところだ。
7、最後に書くのがいいのか、この時期に台湾人は、日本皇民つまり日本人から中国人に変わった。あれほど望んでいた中国人に、しかしどんな中国人になるのか誰も方向は分からなかった。こういう人心が落ち着かない時であった。
結論的に
この小説は結構重要な歴史的事件を骨格として、その当時にしてはありうるような事件、またはモデルになる事件があったものに血肉を与えたと言える。台湾がこの第二次世界大戦で日本から中華民国に支配体制が変化するときの歴史の大きなうねりの中で起こる人間の悲喜劇といってよいだろう。(文化的な捻じ曲げ)ある意味この歴史のうねりをミステリーという形を借りて具体化したと言ってもいいのではないか。
なお、「怒りの菩薩」という表題は、台北の菩薩山での事件であるが、はっきりとは分からない。が、何か深い意味はあると思われるので今後分かれば報告するようにしたい。