今回はちょっと硬い本を取り上げる。
改定「社会科学概論」寺尾誠、慶應義塾大学出版会、1989年の初版を97年に改定新版として出版。
この本は、私が大学の時に師と仰いだ、寺尾誠教授の本で、我々が学生の時にはこの種のまとまった本は彼は書いていなかった。5年前に亡くなったのだが、一昨年大学で3周忌といったか追悼の会があった。その時にあとで書いてある,哲学者花崎こう平氏への手紙をまとめた「歴史哲学への誘い」という本をいただく。かなり分厚い本だ。そういうこともあり、一度しっかり寺尾さん(以下寺尾さんとする)の本を読むべきと思ってこの本を手にした。
私も70歳である。今頃大学のテキストを読んで何になる、と思ったが、社会科学が否定されるような時代でもあり、我々の学生時代に人気のあった丸山真男や大塚久雄、内田義彦などが否定されている現状なので、寺尾さんの思想が何であったかその一端を知りたくて読み始めた。なかなか難しい歯ごたえのある本である。学生がこの本を読んですんなり理解できるものではないだろう、と考えられる。
まず改定の意味;増補改訂にあたって、という序文に書かれている。
1990年代に起こった「「社会主義」政権に対する諸国人民の反政府運動やその後のこれらの諸国家の民主化や市場経済への対応については、時代に制約された一人の人間として私の分析は十分なものではなかった」ということとこの本自体が通信教育課程のためのテキストなのだが、学生から様々な質問を受け自ら反省するところがあった、という事で、テキストの内容は全く同じであるが、第9章として増補改訂の章がある。
これは分析が十分でなかったことについての内容である。また花崎こう平との対話(歴史哲学への誘い、暮らしの手帳編集から出版、2019年)ベトナムのタウ、歴心理学のバルブー、イスラムへの理解と井筒俊彦の深層意識の問題などから、新しい地平とともに自分の構想した諸概念を大きく訂正せざるを得なくなった。
また学生にはこの反省の内容についてよく考えるようにと書かれている。何を反省しているのかという問題である。
中身であるが、これを要約するのはチョット荷が重いのであるが、どういう内容かといえば、寺尾さんの構想した諸概念(社会技術、自然技術、理動、情動、目的による統御、価値による統御、上級占有、下級占有など)から見た歴史といったほうが良いかもしれない。
寺尾さんが構想した諸概念は、人間が生活するというところに原点があり、その周りに欲望を、目的による統御、価値による統御、原点を下から上に貫くものは情動から理動である。生活の構造をひとつの球体のモデルとしてとらえる。その周りにこういう諸概念が方向づけられている。反省のところで言われているのは、人間の生活の構造が、欲望という意識中心ではないかもしれないという事である。これが、井筒俊彦の深層意識の問題に目を開かれたという事だろうと思われる。明快な欲望といいうもので人間の生活がとらえられないのではないということだ。
本論の内容は非常に重要なことで満ち溢れている。特にウェーバーの問題、マルクスの問題、その他の社会認識に関する所説に関しての批判的な内容については面白いし、有益である。なお日本の大塚久雄や丸山正雄に関してもその問題や限界について語っていて面白い。ソビエトの崩壊についての問題、マルクスの思想は非ユダヤ的ユダヤ教だとの指摘、またゲルマンの犂についての論考も非常に面白い、というか経済史でこの古代のゲルマン犂について書いてある本はほとんどないのではないか。(自然技術という概念を使っている。これは社会技術と対になっている用語である。)
またこの本は彼の書いた中では後期であり、初期に出した「価値の社会経済史、分業と支配の史的構造論」(税務経理協会の出版、1977年)の中では明確な概念となっていない用語がふんだんに使用されているところから見ると、寺尾さんの思想の結論的総括といってもいいのかもしれない。また、「価値の社会経済史」に関しては3年後に改訂版が出ている。これもあとがきが増補され、あとがき自体が膨大になっている。その中にもこのバルブーの考え方や、概論に出てくる情動と理動についての説明もある。
結論的にいえば、寺尾さんの、価値的諸活動という言葉があるが、これは世界の宗教的天才などが世界観を一新するような価値を説き、それを信じる人たちが出てくる。カリスマ的存在であるが、彼らの語る新しい価値と言うものを非常に重視している。価値によって人間が統御され生かされ希望を持つという事だ。ここにはソビエトの体制にあった価値無視の世界に対する痛烈な批判になっている。あるいは現代の科学技術優位、社会技術優位、また人間主義的な世界観に対して価値の重要性を説くことによって現代への痛烈な批判になっているものと考えられる。ここにはその価値についての根源的な問題が書かれているといってよいのではないか。寺尾さんの射程は遠くまで放たれており、書き方は情熱にあふれている。一読の価値ありと考えられる。特に増補の章、
一つ重要なこととして、現在の社会科学の本ははっきり言って解説本が圧倒的に多い.そのせいか、学者の苦闘して獲得しなければならない概念形成という所が置き去りにされている。自分の独自な概念形成というものがなければ学問ではないという気がしてならない。そういう意味ではここには寺尾さん独自の構想された概念がふんだんに出てくる。ありがたいことだ。