妬みと嫉妬の重要性といじめの問題

「いじめと妬み」(戦後民主主義の落とし子)土居健郎、渡部昇一、PHP研究所、1995年発行(全部で173ページ)

(戦後民主主義の落とし子)という言葉は渡部昇一的な注釈である。土居氏はそういうことを語ってはいない。この本は対談なのか書いたものを対談風にしたのかよくわからないが、多分対談だったはずだが、対談とは書いてないし、章立てなどあってそれぞれの方が書いた様な感じも持たせている、ので風変わりな本である。この本は「甘えの構造」で関心あったついでに読んだものであるが非常に重要なことが書かれている。

1、テーマ
ある中学生がいじめによって、自殺したことをめぐっての対談。

2、精神科医だからわかるのか
土居さんは非常に重要なことを語っている。私としては土居さんの「甘え」の構造の発展形として読めるのではないかと感じるところが種々あった。

渡部さんのほうはどこまで行っても戦後民主主義、日教組の教育が悪いと言っているだけで昔はよかった式になってしまってその見解がこの中学生のいじめのような問題に対処できるような代物ではないと考えられる。
精神科医として土居さんはその中学生の立場に立って、生きていたらその中学生と対話しながらここで交わされているような話をしたのではと思わせられる。それほどその中学生の内面に入り込んだ議論ができるという事が驚きである、と同時に精神科医だからできることなのか。しかし、その他のいじめの本を文庫本や新書で見た限りでは精神科医の書いたものは見当たらなかった。これについては専門書があるのかないのか今後調べていくことにする。

3、非常に重要な考え方
いじめからの解放の策として二つを挙げている。
⑴だれか目上の人と相談できるか、上下関係というものが悪く言われているけれど自分の悩みを目上の人と相談できるか大きな分かれ目だという。目上というのはある意味権威の象徴であり権威に従う、権威の命令に従順になるという事は人間の成長過程では必要なことのようだ。

⑵妬みや嫉妬がいじめには相当に重要なキーワードである。要するに妬みや嫉妬というのは非常に隠微なゆえに誰にとっても私はそういうものを持っていないし、私の行動や感情にそういうものはないと思っている。隠れた感情である。ないはずのものが本質的にあるのである。
甘えも知らぬ間にその法則に従って生きてしまうのと同じである。
そこで土居さんは薦める。そういう感情はだれにでもあり、自分も持っている。妬みや嫉妬で自分の行動が起こされているという事を恥ずかしいとは思うな。誰もが持っている感情なのであるからそれに向き合う。客観的に自分に認める必要がある。それによって自分が解放される。キリスト教の神もねたむ神なのであるし、またパウロが語っているロマ書のところでユダヤ人をねたませるために神はキリストを送りユダヤ人のため律法を廃棄したのだとまで言っている。(2部第1章、妬みと聖書、p124)

4、結語
つまりそういうことを知っていればいじめがどうして自分に起こっているかを理解できるという。またこの中学生は、遺書に教会に行きたかったというようなことを書いているそうだ。ある意味相談できる人を探していたのかもしれない。悲惨ではあるがこれからも続くだろうこういう痛ましい事件についての土居さんのような精神科医の見方が非常に重要な参考になるであろうと思われる。

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