大塚久雄、近代化の人間的基礎、岩波書店、全集第8巻
(この本は筑摩書房刊であったが、大塚久雄著作集に第8巻に入った。)
大塚久雄は戦前戦後の経済史家として超有名。しかし大塚は終わったと言われて久しい。経済史もグローバル経済史であると言われ、資本主義発生史論のような問題意識がなくなってきたためとも思われるが、当時から近代主義者、イギリス基準の歴史観と批判され、また今は大塚の言説が戦前戦後で一貫していず、総力戦の戦時経済の旗振り役であったような批判もまたたびたび出てくる。
日本では珍しいほどの経済史の専門家でありながら時事的な問題まで含めて経済史の視点から取り上げてくる思想家でもあった。食うや食わずの終戦後の世界と今では問題意識が変わる。経済そのものの見方も変わってくる。そういう意味でも古くなるという言い方はあるし、歴史的な見方が変わることによって、論調も変わってくる。
しかしこの稀有な思想家の考え方を全体として葬り去るには問題が多い。彼が提起してきた問題は今なお日本の中心的課題となっている。
特にこの「近代化の人間的基礎」を今読み返してみると、40から50年前に読んだ時とは印象が全く違うように思われる。自分も少しは変化しているのであろう。当時はフランクリンの例が挙げられているように、節制、禁欲、・・・などが近代化のエートスであるというように読んでいたのである。(このエートスという言葉も最近は、問題にされていない。特に経済史では誰もこのあたりのことを批判的にとらえていない。)
私が正直、この年70歳になって気が付いた点というのは、2つの自由という問題である。これが彼のこの著書では中心的テーマであるように思われてならない。
オランダのベイラント流(ベイラントという人はオランダの17世紀の貿易商で、敵方にも武器や弾薬を供給していて、民衆が激昂したという人物である。また商売で利益を得るのに地獄へ船を乗り入れる必要があるというなら、たといその火で帆が焼け焦げたって俺は勇ましくやるだろう、と言った)の放縦としての自由と良心の自由としての自由この二つの流れがヨーロッパでは拮抗してあらわれているという。この後者の自由はどうしても宗教的自由の形をとらざるを得ない。(アメリカへ宗教的自由を求めて渡った人たち、ピリグリムファーザーズ)この二つが西欧の激突する流れを作っているという事である。深読みすれば、西欧の近代というものの持つ問題は放縦としての自由が歴史の争いの中で勝ったり負けたりしている。(大体支配者型の宗教、思想はどうしても放縦としての自由を重んじる傾向である)しかし基本線は、資本主義の発生時には徹底した民衆的禁欲のエートスがあったゆえに原始的蓄によって資本主義が生まれた。だから国別にはその禁欲の徹底度合い、つまり経済倫理の徹底の差により大きく形態が変わってくる。その禁欲の度合いというのが経済史的にどういう階層とくっついているのかによって、その利害を支える宗教上の教説が背後に控えている。
引用、著作集第8巻p193、「オランダでは二つの教派が鋭く対立していた。一つは自由派(アルミニウス派)他はカルバン派・・・・この両者の対立は、現実においては、単に宗教上の対立だけにとどまらず、政治的・社会的・経済的な諸事情にも深く絡みこんでいた。大づかみにいうならば、一方ではアムステルダムその他の都市に本拠を持つ裕福な封建的=都市貴族的商人層は自由派と絡み合い、他方では民衆の機軸を形作る中産的な生産者層はカルバン派にしかと結びついていたのである。・・・自由派(寛容派、、レッカリッケ)に見られるところの、あのベイラント的個人的エゴイズムに対する否定的批判の弱さと不徹底、つまりある程度の寛容が結果において都市貴族的商人層を自由派に結びつかせ、全体として自由派が都市貴族的商人層の利害を代表して立ち現れることになったとみるべきであろう。」
このようにプロテスタントの中でもその対立を作っている。しかし現実の歴史を動かしたのはルネッサンスでもなくカトリックでもなく例のカルバン派という古プロテスタンティズムであった。(これはマックスウェーバーの「プロ倫」の考え方である。エルンスト・トレルチも同様)この二つの自由の問題を大塚久雄は歴史の中から取り出してきている。経済史的事実として。この二つの自由問題を彼は非常に重要視している。この問題はその後現代のマイケルハートの「マルティチュード」でも触れている暴力を国家が独占している状態としての帝国的問題であり、結局民主主義の指導者である欧米の大国が最大の危険な暴力をフルに行使して、グローバルの中に利益が見いだせるとすれば解き放たれた剥き出しの欲望がその持てる高度の暴力でグローバルの民衆を襲う。多分にここまでの射程を考えてこの二つの自由問題を語ったのではないかと思う。この問題はネオコンが登場するアメリカの宗教上の問題とも関連して、非常に多く応用できるテーマである。トランプも熱心なクリスチャンという。(二つの自由を担う階層とそれを背後で支える教説)二つの自由とは二つの人間の概念とも重なる。彼は人間的であるというのはどういう意味であるかと問う。ルネッサンス型の人間とプロテスタンディズム型の人間とが対抗している。二つの自由も同じくこの両者の人間類型の上に乗っかっている。また二つの利益という問題も扱っている。これもこの自由の問題と同じ考え方である。
二つの愛国心にも同様のことがいえる。内村的愛国心と日本の会的愛国心。