人生に本当に必要なものが何かを考えさせてくれる。

フランクル著、夜と霧、(ドイツ強制収容所の体験記録)みすず書房、1961年発行、正確には本書の題名は「強制収容所における一心理学者の体験」

1、ナチへの告発がテーマではなくて
この本をいま冷静に読んでみると、ナチズムへの告発というような本でないことがよくわかる。ある意味極限状態に置かれた人間が最後は何をよりどころとして生きていけるのかというテーマだ。

また、そのよりどころとなるものというものが何という平凡なものであるかという事だ。一言で言えば生きてる限りコミュニケーションが必要だという事である。実際この本にはそうは書いていない。これは飛躍しすぎかもしれないが、言外にそういうことを言いたかったのではないか。なぜかと言えばなぜか私は読後すぐいろんな人と会話したくなった。また見知らぬ道行く人にこんにちは、と声をかけたくなった。そしてまた何かを一緒にしようよという事を恥ずかしがらずにできそうな気になった。簡単に今コミュニケーションという言葉を使ったが、はっきり言って、他人に親しい声を発するというのはなんと難しいことだろう。今の今までそう思っていた。というのは個人個人は鎧で自分の精神を固く閉じている。また別の言葉で言えば個人個人は断絶している。この断絶や個別にされている鎧を壊すのは親しみのある声でこんにちはという発声する言葉である。神は光あれといった。これも発声した。あるいは叫んだと創世記には書いてある。これと一緒だ。全く同じだ。最初にこんにちはと親しみの声で発声する。これが生きるための単純な真実ではないか、と思えるようになった。別にこんにちはではなくとも言い。この個別化された鎧を壊してくれるコミュニケーションの言葉であればいいのである。
 
2、人生を自分でつかみ取らなくてもいい
それにもう一つ重要なことがある。彼は一見賢そうな選択をしなかった、といえる。ある意味偶然に任せた。この本にはいろいろな選択を決断しなければならないことが書いてあるが、本質的には偶然に任せている。これも案外重要なことかもしれない。自分から運命をつかみ取らなくていいのである。

3、あなたを待っている人のために
 又私事ではあるが、私もサラリーマンの時よく営業マンには世界であなたの担当商品を待っている人がたくさんいるんだ。その人のところへ行くのが営業なんだという事を言ってきた。あなたが来ること、あなたがその商品を待っている人のところへ現れるだけでいい、という事。それでインドネシアや台湾やタイやマレーシアに行ってもらった。帰ってくるなり、営業マンは確かに待ってました、相手は私の来ることを喜んで待ってましたという報告があった。そこで仕事の本当の喜び、出会いの楽しさを知る。誰も本当は分からない市場のために不安の中探しに行くわけだが、必ずこの商品を待っている人がいると思うことによって鼓舞されるものがある。そう思えることが現実となっていく。これはちょっとこの本には下世話な話かもしれないが、紹介したい話の一つである。
 確かにここでもフランクルは言っている、待ってるもののとためなら生きていけると。自分の未来、自分の残された仕事、愛する人、そして唯一の神これこそ待っているものである。

そういう意味ではこの本の読後感は素晴らしいくらいにさわやかな気分になる。

(本棚を整理するといろんなものが出てくる。この本もその一つで、こんな本持っていたんだと懐かしく手にした。この本は恐ろしいという印象があって読む気になれずに長い間いた本だ。評判の本であろうが、アウシュビッツというところの恐ろしさは写真など見ると怖いを通り越して気持ち悪くなる。そういうたぐいの本であるから、敬遠していた。しかし目の前にある。手に取る、中身を読む。ひもで引っ張られるようにひきつけられ読まされてしまう。
中身自体は非常に短い文章なので、イギリス軍の戦犯法廷顧問ラッセル卿の解説などは厚みを増すために使ったのだろうと思われる。現在では不要でもある。ついでに言えば最後のほうにある写真集も不要だろう。この両方ともぞっとする程気味の悪いものである。子供には見せたくないものだ。それでなくともフランクルの文章でその悲惨さは伝わってくるが、それが主題ではない。)

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