「日本の個人主義」小田中直樹、ちくま新書、2006年発行
1、なぜこの本を読むか
これは、大塚久雄の近代化の人間的基礎、を読んだときに現在大塚の批判はどうなっているのかというのを知りたくて、関連本として読み始める。大塚批判の本をインターネットで調べると結構多くて、内容も千差万別であり、多くは大塚はもはや時代遅れである、また彼の学問は学問といえる代物ではなく説教だというものもある。
①中野敏男「大塚久雄と丸山眞男」(青土社、2001年)
②田川健三「翼賛の思想から帝国主義の思想へ」(批評精神一号1981年)
③恒木健太郎「『思想』としての大塚史学ー戦後啓蒙と日本現代史」
それぞれ相当な批判でもあるが、①,②は徹底した批判であろう。死んでくれと言わんばかりである。特に①戦前の総力戦に加担しさらに戦後は同様に総力戦的なものに加担しているという。これは大塚も丸山も同様である。と。③は解説によると大塚久雄は亡霊のように生き残っているというので批判なのか、思想を批判的に受け継いでいくのかははっきりしない。
2、この本の立場
こういう本が多い中では、この小田中直樹の本は相当に大塚寄りで彼を批判的に継承したいというような内容である。ただその内容は、この現在という時点では大塚久雄に賛意を表明することによるデメリットなのかおっかなびっくりといってよいような内容である。彼の立論からすれば大塚の重要な処はしっかり批判的に継承していこうと言えばいいのを回り道をしている。さらに言えば本題の個人主義というテーマを取り上げているのだが、個人主義というテーマよりは、内容は大塚の論説は今もなお正しい、批判に耐えられるという事を証明するために書かれたようなのである。題名には問題があったのではないか。(この本は大塚久雄著作集第8巻の近代化の人間的基礎を中心としている)
③の恒木の本も今考えると学会の状況なのか大塚久雄に賛意を表明することが問題視されるような状況もあるのではと思われる。大塚のどこがよくてどこに問題を感じるのかというようなわかりやすさではない。彼の本は、戦前戦後の大塚の発言、文書の内容が一貫していないで、戦前の体制にへつらうような内容もある、その後訂正されたというような批判がある。信用を無くす大塚という批判である。
3、大塚の思想の継承者は?
彼がなくなってすでに25年ほどは経っている。彼の弟子である教授たちももはやいない。残っているにしても名誉教授、学長というレベルで研究者の立場にはほとんどいない。こういう批判的記事が出ても関係者は反論も書けないだろう。また反論も書く気がしないだろう、という感じはする。(出たとしても一般人は読むことができるような形では出版されることもないかもしれない。)
しかし真実はだれが何と言おうと残っていくものであり、本当にダメなものなら消えていけばいいのである。しかし先行する研究の重要さや論争の重要さは学者であればわかりきっていることであるが、無視していくというようなことは学会というか日本全体にももったいないという気になる。会社でも研究蓄積が必要といわれてもなかなか先行した研究を見直すということは少ないのである。講座派と労農派の論争や大塚久雄の多くの批判についても批判史というものが書けるくらいになっているのではないだろうか。
4、はやりすたりのある思想業界
この本でも言われているが、近代主義、ポスト近代主義、ポストポスト近代主義というような移り変わりの早い論調を相手にしている。そういう意味では今はやりの考え方などを簡単にわかりやすく解説しているので案外重宝であることは間違いがない。しかしこの本の残念な処は何を言いたかったのか、よくわからないという事にある。テーマは個人主義と自律と主体という問題である。これがどのように扱われ変化していったのかが書かれている。人間は自律すべき主体である、という事がこの本のテーマである。どのようにすればそうなるのか。なかなかわかりずらい。
5、人格の問題
しかし、この本をよんで一つ重要なことに気が付く、人間は主体とか自律といっても本当は空っぽではないか。これを満たしていくのは何かがそこに入っていかないとその種すら作れないのではないか、たとい小さな種があっても育たないという事もある、と感じる。キリスト教的な自己否定というような、まだ自分には何かあると思えるようなものをことごとく粉砕してしまうような思想と対になってその救済の思想がないと人格という種が生まれてこないのではないか。人格の形成という事については大塚がかなり語っているのだが、そこへの視点がこの著では全然なかった。非常に残念なことだ。