ヘーゲルとその時代、権左武志、岩波新書、2013発行、800円
この本はまた別のことで重要性を持っている。認識の哲学のことは少し置いておいて、マルクスへの批判が提示されている。どういうマルクス批判かというとロシアや東欧で起こった革命の結果が共産主義独裁的、思想統制的、民衆に対する抑圧のシステムとなった契機にこのマルクスの考え方があるという。
「第5章ヘーゲルとその後の時代」の章にこのマルクス批判が展開される。
ヘーゲルは市民社会の重要性を指摘した最初の哲学者であり、国家とは別に市民社会を定義した、という。市民社会と国家の問題は矛盾を抱える。ヘーゲルによれば市民社会というのは自由意志を持った人間が相互依存の関係により自由に暮らす社会(私人の社会)であり、一方の国家は戦争などの時に徴兵制などに典型的となる強制を強いる権力として立ち現れかつ人は公人としてふるまう。この人間の二つの存在への分離がある。(2面性がある)このヘーゲルの見方は、現状のドイツプロイセンをそのまま追認した考え方だとして不十分であるとマルクスは批判する。この市民生活というのはブルジョワジーという事である。そこでマルクスの主張は、政治的解放から人間的解放を目指し国家と市民社会を再統一して共同存在を回復するよう要求する。プロレタリアートという最大の階級が革命を担うことによって政治的解放による人間的解放へ至る、という。
著者は、誤ったへーゲル批判からマルクスは出発した、という。
下記引用(p195)すれば「だがマルクス自身、異なる意見を持つ他者の権利を理解できず、誤ったヘーゲル批判から出発した点も挙げられるだろう。例えば①「人間的解放という最初の目標は、分離に媒介された統一ではなく、逆に思想・信仰の自由を分離の権利として否認したため、、自他未分化な状態へ回帰するよう願うロマン主義へ退行した。また、②市民社会を利己的個人の領域とみて、国家と再統一しようとしたため、社会の自律性を否定し、国家が社会全体を統制する全体国家を作り上げた。さらに③カント以降の観念論を否定し、現実生活を歴史の土台と考えたため、支配的な時代の大勢を歴史的必然とみなす必然史観へ行き着いた。」(分離というのは国家の公人と市民の利己的自由との分離である。簡単にいえば公的と私的の分離のことである。社会と書かれているところは市民社会と読み替えてもいい。)
私としてはこの批判があってるのか、間違っているのかは、明確に判断はできない。しかしこれがあっているとすれば、市民社会論というものを主張していた内田義彦や大塚久雄、丸山真男などがまた復権するのであろうか。国家より優先する市民社会という考え方、またなぜマルクスはそれを批判したのか。本当にへーゲルの市民社会論とマルクスの国家論の大きなずれによってあの虐殺に虐殺を重ねたソビエト共産党が必然的にできてしまったのか。この問題が明確になってくるもしれない。さらに学ばなければわからない深い謎に遭遇したような気分である。またこんなことを言った人はほかにもいたのだろうか。(ハバーマスなどの引用もあるのでこれに近いことを言っているのかもしれない。)