(1)ヘーゲルとその時代、権左武志、岩波新書、2013発行、800円
ヘーゲルの「哲学入門」(岩波文庫)をよんだので、理解を深めていこうと思って手にした。
また、この「哲学入門」を読んで後で気づいたことがある。それは、我々の何かを知る、何かを見る、何かを考える、何かを表現する(認識と表現)という作業をするときに、西洋の認識や表現の仕方と日本及び東洋では違うのではないかと感じる。
(これはヘーゲルの哲学入門のコメントでも書いた。)西洋には典型的に遠近法で精緻に描かれる絵画の技法がある。日本もないことはないのであるが、遠近法のシステムにはなっていない。こういう違いが、物を見るときや、知るとき、そしてさらにそれを表現するときに違ってくる。西洋との差がこのヘーゲルの哲学に潜んでいるような気がした。
一番需要な処は、自分というものも対象化するという事である。自分も客観的に見るのである。自分を突き放して見ていく。このことを書いた文章があるので引用する。
「日常生活の体験も、「私は考える」という反省作用を加え、概念により抽象化するならば、つまり生活上の感覚を思考し、距離を取って対象化するならば「私が対象を意識する」という意味で、主体と客体が分離した状態へ転じることができる。だが、抽象化により取り出された客体も、さらに反省作用を加え、これが概念により構成された思考活動の所産だと自覚するならば、「対象の中に自己自身を見出す」という意味で、主体と客体が再統一した高度な状態へ戻ることができる。ここには主格の統一から対立へ、主格の対立から再統一へ至る「対立物への移行」という、否定的な意味での弁証法の最初の論理が見て取れる。」(p67第2章帝国の崩壊と精神現象学)
この試行経路がわかれば、ヘーゲルは理解できるのではないかと思う個所である。またこのように自己意識というものを客観的にみていく手法でもある。つまり自己であろうが相手であろうが、あるいは自然であろうが、自分から突き放して対象化してみていくという仕組みなのである。デカルトから始まる、われ思うゆえにわれあり、の世界はみなこのような手法を通して考えられ、表現されている。これが西洋的認識の仕組みとなっているのである。我々がなかなかこの西洋の哲学を理解できないというのは、この自己自身を客観的に突き放してみることが普通の状態ではできないからではないか。そういう思考システムに触れていない。多分に政治団体の発言、国会の議論、ネトウヨ発言、日本の会、ゴーマニズムその他週刊誌的記事の表現、テレビなどの解説者の発言、さらに言えば我々の会話などを観察していくとほとんどが自分自身の思い込みのような発言が目に付く。なぜか、自己を客観化できないのである。話がいつも客観性を欠いている。だから一面的でおかしいなと思っても、何がおかしいかわからない。