ヘーゲルの哲学入門を読む

「哲学入門」ヘーゲル著(1809-11年に書かれた、ドイツでは1840年に出版)、武市健人訳、岩波書店発行1952年1980年で30刷。(岩波版はドイツ出版後110年後である)

古典中心
70過ぎてから、読書にも時間の制約あることを知り、何でもかんでも読める時間はないと悟り古典に集中していこうと考えて読み始めたのがこの一冊である。哲学の本については、まじめに一冊を読んだことはほとんどないが、ハインリッヒハイネの「ドイツ古典哲学の本質」岩波文庫版は読んだ。これは哲学の本であるが、哲学そのものではない、哲学の歴史的流れである。ハイデッガーの場合もそうだが、読み始めると何を言っているのかわからなくなるがゆえに、途中で放り出してしまう。

読みたいのだけれど何を言っているかわからなくなる。このヘーゲルの本もそういう面はあった。なので本の途中から読めそうなところだと思ったところから読み始めた。すると最後まで行けた。分からないところは飛ばして行こうと思ったが、そういう個所は少なかった。また戻って読んでない個所を読み始めるといった変則であったが一応読みこなした。理解されているかはまた別ものではあるが、こんなものを読む人がいるのかというくらいの古典である。

この本の構成他
この本を要約することはできないが、初級編、中級編、上級編と分かれており、次第に難しさは当然ながら増していく。最初は人間の意志を中心として法律がどのような意味を持つか、次は精神現象論と論理学では意識の学としての精神現象論、論理学ではこれは例の三段論法的なことが例示されここで止揚、という言葉が使われる。最後は概念論であるが、これがわかりにくい。この概念という言葉は何かについての概念というならわかるが、概念そのものを問題にしている。非常に抽象的である。その概念の中に相対立する矛盾がある、その対立する矛盾を止揚する、というように考えられ使われている。だからここに彼の概念論の中心があって、矛盾の止揚という事でマルクス主義とか毛沢東主義とかが出てきたのかと思わせられるところである。結局哲学というのは使われている語句の意味を具体的につかまない限り分からないという事である。その語句を似ている言葉とどのように違うか、一つ一つ語句の違いを意識しながら進んでいく。まるでソフトウェアーの論理語のごとくであるが、具体的につかんだ語句をある時遠くへ飛んで違う場面で使うとわからなくなったりする。どれだけ抽象度が高いかという感じはする。これに慣れないとなかなか哲学の本は読めないだろう。しかし1800年代のドイツの大学ではこの種の哲学が基本科目として学ばれていたのである。カントの後であるから、へーゲルのほうがわかりやすかったかもしれない。

今後ヘーゲルの本確定な哲学の本を読めるだろうか
この本は表題にある通り入門編なので、今後彼の哲学を読む際には非常に手掛かりになる本といえるだろう。また、哲学用語をほとんど解説なしで使われているが幾分の解説もある。そういうわずかな解説を手がかりとして彼の哲学の理解を進めていくことが要求される。この哲学用語は日常語を使うのだけれど意味はかなり違うのである。この入門編である程度理解しておかないとその先には進めないという事なるかもしれない。最後の章には哲学の意義が語られるところがある。何だこのための学問だったのかという事だ。読み終わっていい本だと感じた。またこの本を読めばさらに難しい本でも何でも来いという気にはなる。しかし読みこなしていくうちに、歴史的に沢山の人々がこの哲学を勉強したという事がよくわかる。またそういう意味ではこの本を勉強できたことは意義深いことである。ヨーロッパの学問のレベルというものの最初の出発点のような本である。

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