NHKテキスト100分で名著、2022年10月、折口信夫 古代研究、上野誠著
折口信夫に入門できるだろうか
折口信夫の古代研究がこの薄い小冊子である程度理解できるのであれがこんなにありがたいことはないと思って手に取った。しかし、この本については思いのほか手間取った。
折口信夫全集というのは中央公論新社で発行されたもので37巻プラス補遺で3巻とあるので相当のものである。全部読まないまでも古代研究だけでも3巻ほどある。彼の口訳万葉集もある。彼の全貌を理解するのは容易ではない。これは柳田国男についても同様である。
しかしこのNHKの本は骨格だけは理解させてくれるのではと期待させられる。
古代研究とは
彼の古代研究というのは、とりあえず前もって言えば、古代文学研究と民俗学と言葉の歴史の研究ようなものである。
要するに、古代の言葉から古代人の気持ち、生活,慣習というものを探ることによって今の我々との大きな違いを見せていく。さらに日本人の古代から心の奥底にどういう精神的態度があって、この現代のような生活あるいは精神生活ー他国と違う性格ーをしているのかという事への理解でもある。
やはりこの中で民俗学的発想というのがなんとも魅力がある。なぜか。というのは我々の幼い時に聞いたような話の思い出をほのかに引き出してくれるのである。また桃太郎物語のようにその背後にどのような実態があったのか、あるいはどのような経験があったのか、ということを考えさせてくれる。
なお、柳田国男と非常に親しい関係であったようだ。これについては雑誌現代思想の折口信夫特集に詳しい
今なぜ折口信夫か
いま彼を読むというのはどういう理由があるだろう。なぜこういう古代にひきつけられるのか。日本の古代人にはどういう性向があったのか、何が日本人の気になっていたことなのか、重要だったことは何か、どういうことが日本人を制約しているのか。なぜこういう制約が出てきたのか。それ以外にも言葉の意味の変遷や最初の意味からどのような経緯で言葉の意味が変わってきたのか。その言葉を外国人に説明するとどうなるのか、というような興味もあるだろう。
ズバリ日本人の古代的、根源的経験というものを引き出し明るみに出してくれる、ということではないか。
何が書かれているのか
そういうことからこの本を読み始める。しかしながら最後まで論争の種になる彼の「まれびと」論から始まる。まれびとというのは古代人にとってはまれに来る人で、かつ神の言葉を持ってくる人としてとらえられたというのが折口信夫の考え方である。実態があったか、なかったかは彼にはあまり興味がないか、意味がないとみているか、わからないが、実態は証明できない。
このまれびとという概念から日本の文化は生まれてきた。このまれびとを受け入れる時の考え方がおもてなしである。ここから祝詞や寿詞(よごと)が生まれ、神道が生まれる素地になる。
まれびとと他界
このまれびとは他界から来る。(遠いところから来る)それが貴種流離譚をうむという。貴種とは貴族的、神的なつまりカリスマを持った人たちが日本中を旅する、流残な身をさらし、日本全国を追われているのか、没落故なのか放浪する、という話が日本の民話にはたくさんある。そういうものを生み出していき、それが物語となる。竹取物語、源氏物語、桃太郎、その他。
文学の発生
まれびと、他界,いはう(祝う)まつり、門松の意味、蓑傘をまとった人、マユンナガシ(沖縄の来方神、石川県の祭りアエノコト、人と神の関係が日本の文化と気が付く。言霊信仰、、呪言、貴種流離譚、ほかひびと=祝福の芸能、門付け芸人、芸能者の聖と賤などとまれびとの変奏曲であり、色々に展開していくが、つまりまれびとという人たちの活動が日本の文学を発生させた、というのである。
またまれびとを迎え入れるときの祝詞(神からの言葉)、寿詞(人間から神への言葉)から歌が生まれる。交換する歌である。問いの歌があり返歌する、こういうものが万葉集やその他の和歌になってきた。
(七五調という歌の様式)
まれびとの歴史的、社会学的位置
特にまれびとの発見というのものが彼にとって大きな古代研究の柱になったようでこれが柳田国男との違い、路線の違いを生んでかつ多少の論争になった。
まれびとという概念は、古代においてまれに来る人という意味であり、それは他界、遠い世界からやってくる人たちのことだ。まれにしか来ないのでその時には神を迎える如くおもてなしの精神で家に迎え入れる。この民衆とまれびととの関係によるやり取りの中に日本の文化の原型があると見たようだ。いはう、まつる、というようなこともこのまれびとからきているようだという。我々から見れば当然このような遠い世界からやってくる外国人のような人に対してそれは剣を帯びていたかいなかったか、支配者としてくるのかというようなことは問題とされていない。神としてくるということが非常に重要な問題とされている。ある意味上位の人であった可能性はある。そういう人を神と見たということでもある。新鮮な驚き、おそれ、恐怖もあったはずだ。
しかしこの見方を広げてみると、古代史における朝鮮問題などにたどり着いてもよさそうなものだが、江上波夫の騎馬民族説については柳田とともに完全否定していたようだ。また文学というより支配、被支配という政治的、階級的あるいは階層的関係を意識はしなかったのか。すべてまれびと=神関係でよかったのか。このあたりに関しては雑誌現代思想「折口信夫総特集」のなかの松居流五の「民族移動による他界観念の発生に関する議論」に詳しい。
この研究は何のためなのか
こういうことがこの100分de名著というものに書かれている。結局骨格は確かによくわかるが、この研究がどういう役に立つのか、なぜこの研究をしてきたのかなどについては詳しくはわからない。敗戦日本について復興していく中で日本の独自性を失いたくないという気持ちがそのモチベーションだったのか。しかしこの研究は、柳田国男とも大きく関係しており、はっきり言って民俗学というのは日本独自に発明された学問であった。これを谷川健一は常民の学と言っている。常民という一般の人たちの心の領域を明確にしたということだ。特に谷川はマルクス主義的な方で弟の谷川雁は運動家でもあった。要するにソビエト式マルクス主義では民衆をとらえられないという感覚が彼にはあった。谷川健一は60年安保の終わったころ、橋川文三のところへ行ってこれからの運動はどうすべきかというような話を聞きに行ったとき、柳田国男の「日本の祭り」でも読んで来い、と怒鳴られた、という。(「谷川健一越境する民俗学の巨人、追悼特集、河出書房新社2014年、後藤総一郎との対談の中で)また柳田との出会いによって、彼は新約聖書マルコ伝に出てくる小民の気持ちがわかるような感じになった、という。
つまり柳田、折口のこの民俗学、古典研究が切り開いてきた学問は、この古代の普通の人々というのは、支配されていた層であると考えらるが、そういう人たちの心象をとらえた、表に引き出した、ということだ。ドイツの聖書解釈にもジッツ イン レーベン(生活の座)という言葉がある。聖書解釈の一つとしてそのストーリーなり言葉が背景にどういう「生活の座」を持っているのかを発見しようという解釈の方法がある。ある意味これと似ている。またウェバーのエートスへの理解、動機理解的方法とも似ているといえる。日本人の原点への理解。日本人の精神的ルーツへの理解と言っていいのか。私としてはあまりに日本人あまりに日本人的に集中しすぎている感はある。(日本の歴史が単独で成立しているかのような。)
結論的に
この薄い本に関して言えば彼の魅力を引き出しているのは間違いがないが、彼の問題点についてはほとんど触れてはいない。
しかし最初に述べたように骨格だけは理解できたか。入門編としては充分であるかもしれない。しかしこれだけでわかった気になるなというのがこの本の趣旨でもあろう。先ほど述べたが、谷川健一は柳田、折口を批判的に継承してきている。そういう点ではこの民俗学的なものは、現代民俗学として谷川のほうへながれでているのか。ただ口訳万葉集などでは独特の訳と理解があって非常に魅力的である。こういうものを直接読まないと彼の面白さ、魅力などは納得いく形での理解はできないのだろう。