戦時下の喜劇役者の日記を読む。

古川ロッパ昭和日記、戦中篇昭和16年から昭和20年、滝大作監修、晶文社、1987年

なぜこの本を読むか。

分厚い本だ。

浅草芸能史というものを知りたく思った。これは中世史の被差別賤民の話を聞いてから特にそう思うようになった。特に自分の知っているだいぶ昔の喜劇役者、大宮デンスケの自伝を読んでからなおさらに浅草の芸能史を知りたく思ったが、その中の一つが名前は知っているこの古川ロッパだ。偶然図書館の検索の中で見つけたもので最初はもっと小型のものを想定したが非常に大部のものだった。

この日記にもいろいろ名前は出てくる。増田喜頓、徳川無声、エノケン、その他。しかし現在は東西を問わず、喜劇役者というのは激減しているのではないか。特に関東は絶滅危惧的な感じもしないではない。古川ロッパという人は菊田一夫のシナリオをかなり多く演技したようだ。しかし晩年は分裂。ロッパはいずれにしても浅草出身ではなく、日劇、東宝といった所の出身で、早稲田大学英文科中退という履歴である。また両親は子爵で古川家に養子に出された。長男以外は養子に出すという家訓だったようだ。金銭的には恵まれた育ち方をしたか。被差別民との関係はほとんどなし。大宮デンスケも同様だが、出身は結構エリート家系だ。麹町出身で空襲爆弾が激しくなってきたころには引っ越すが、生まれも育ちも麹町でだいぶ長くそこにいたようだ。

古川ロッパの日記というのは、出版されたもので4冊、写真にあるような辞書のような分厚さである。この本は昭和九年からほぼ死ぬまでの間の日記である。たぶん計算上は30代になってから毎日書いた日記の全集というべきものだろう。驚くべきことだ。こんなに書いた人はいるのだろうか。それ以前にも日記は書いていたようだが、どこかで破棄したようだ。また昭和20年7月27日で戦中日記は終了し、現在のところ7月29日から9月3日分が紛失している。よって戦後編は9月4日からスタートしている。昭和35年12月24日で終わっている。死の20日ほど前である。昭和36年1月16日没、57歳

あまりに長いので昭和20年の一年分を読む。1年分といっても7月の27日に終了なので、半年プラスといったところか。しかし終戦の大事なところが抜けていて非常に残念だ。

昭和20年は彼の年齢は41歳か?明治36年生まれだという。昭和36年没、57歳で亡くなった。早死にといってもいいかもしれない。

彼の日記の書き方

このロッパは毎日欠かさず日記を書いていた。日記を書くことを非常な楽しみとしていた。いつ書いていたのか。たぶんこの日記を読んでいる限り、夜ではなく、翌日の朝に寝床で書いているようである。だから前日のことを毎日ことごとく思い出して書いている。朝起きた時の調子から寝るまでの前日の事を、それを思い出すことが楽しいのか、思い出していることを書いていくことが楽しいのかは定かではないが、書く事の楽しみを覚えた人の書き方だとはいえよう。彼は文人でもあり本も出している。戦時中も夏目漱石、やその他の世界文学全集にあるような本を読んでいる。結構なインテリでもある。早稲田大学英文科(中退)だから外国文学には詳しかったのだろう。

空襲警報と防空壕の生活

この昭和20年の日記というものは、東京在住の人たちの空襲警報と防空壕の生活といってもいいのではないか。その庶民の生活にプラス芸能人(本人は芸人と言っている。芸能人というのは官製和語である。当局からの通達によって言われ始めた。芸人より芸能人のほうが文化に貢献しているという感じが出る、と言われて。)芸能人らしい生活を織り込んでいる。

日記の内容

大体決まっているのは、晴れか雨か、がまずきて、その後朝食は何を食ったかという。昼は大体が弁当、そして夕食は何を食べて良かった悪かったという内容。彼は卵が好きだったようだ。さらに卵と牛肉などが好きなようで体に非常に悪い、糖尿になりそうなものを好んで食べていた。その間に今日の芝居の入りはどうか、満員かそうでないか、また今日の客は良かった悪かったなどの内容である。また夜には大体は麻雀をやっていた。空襲警報が鳴るとやめて防空壕に入り、解除されると始まるという具合である。結構な健啖家で食事の内容については事細かに書いている。やはりここで驚くべきことは戦争中、東京では空襲警報が鳴り続けているにもかかわらず、6月くらいまでは何とか芝居をやり大入り満員であったようだ。またその後彼らは麻雀などして一夜を過ごしていわゆる徹マンである。これが戦争下にある庶民の生活とも思えない不思議なことだ。空襲警報もなれるとほとんど怖くならなくなるという。確かに最初は,敵機は一機、二機程度で飛んできて少し爆弾を落として去っていく。だから2時間ほどするとすぐに解除される。しかし5月くらいなると何百機と飛来して爆弾投下である。神田周辺、四谷から麻布あたりは焼け野原になる。

東京大空襲

東京空襲が一層激しくなる6月から7月初めにかけては彼は地方の軍隊、学校、工場へ行き慰問劇団でドサ回りをしていた。家族は福井へ疎開。しかし東北の仙台、青森、秋田、新潟、五泉などもいっている。さらに福井当たりから帰ってきて東京を見るとひどいのでびっくりする。

検閲

またこの間当局はすべて検閲となった。検閲官の愚かな発言が気に障るとして怒っている。ところが戦局が悪くなると次第に喜劇に関しては何も言わなくなったそうだ。

日記の問題

他人の日記というのは分かりにくいものだということがよくわかる。人名一つでも知っているものの名前であればいいがほとんどはわからない。芸能通ならということになるだろう。また同じことを何回も書いている。朝飯を何が出たとかいうのは関心のない人には読むのも苦痛だろう。そういう意味では日記も書くなら簡潔にしてと言いたいところだ。しかし彼は日記を書くのがたまらなく好きだった。下手な小説より面白いだろう、という。また書いているときの快適さ、その書いた日記は大切に疎開などして大事に保管された。そのため難を免れている。

この日記の教訓、とここから読み取れるもの。

日記とは何だろう。自分のために書いて後で読み返すと何月何日には何をしていたかがわかる。自分の存在証明、アリバイのようなものであり、分身である。これがないと一週間前でも思い出せない。そういうことのために書いている人も多い。分身と思って疎開をさせた。しかし戦時中の貴重な日記の一つであることには変わりがない。戦時中でも案外うらやましい生活を送っていた方だ。タクシーが禁止とされ悔しがっている。そのために省線にのって出演する劇場に行かなければならない。また電車が相当混んでいたようでその込み具合がもう本当に嫌になるという。また防空頭巾をかぶっているのであれロッパだは、というような声がするとはずかしくなるという。芸能人にとっても大変な時期である。日記から見える彼は悲壮感はほとんどない。戦争の話で一座全員暗くなる、という話をしたとかいうことも日記には書いてあるが、全体的には明るいトーンである。なぜか、彼のおかれた地位、ポジションというものか。生活信条、あまり悲惨な目に合わなかったのか、また根っからの喜劇役者だったのか。7月には戦後の構想も書いている。戦争が終わったらあれしようこれをしようという内容である。

逆に言えば彼自身の本来持っていた気持ちというものはあまり書かれてはいない。つまりこの戦争の中で人生如何に行くべきかということは一切書いてはいない。あるいは特攻隊の兵隊慰問にも行っているがかわいそうとかそういう感情的なことも書いてはいない。事務的とまでは言えないが、基本は事実中心の日記である。マージャンで何点勝ったとか、その金でどこで飲んだとか、闇米を買った、闇食堂でいいものに出会ったとかそういう内容が中心である。しかし書いていないが彼はいわゆる文学は好きだったようで夏目漱石やツルゲーネフ、バルザックなども読んでいた。だから書いていないからと言って問題意識がなかったわけではないだろうと思う。そういう人間感情的なことは検閲も恐れて書いていないだけかもしれない。たぶん自分の人生についての反省的意識がないとこう長い間日記はかけないだろうから。

ウクライナ戦争と関連して

今のウクライナの人の苦しみも大変なものだろうが、庶民はこうした娯楽などあるのだろうか、日本人が戦時中でも芝居を見に行ったように。空襲がひどい時期の6月、7月ぐらいでも東京での彼の芝居は超満員だというからすごい。かつみんな大笑いをして帰るそうだ。ウクライナにも苦痛の果てには何か笑いがほしかったりするのだろう。そういう気はする。そういえばセレンスキー大統領は喜劇役者だったそうだ。日本には喜劇役者になれるような大統領がいるのだろうか。そういう笑いを届ける救いの手はあるのだろうか。心配である。

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