資本主義は終わるのか?

アントニオ・ネグリ、マイケル・ハート著「帝国」ーグローバル化とマルチチュードの可能性、水嶋一憲他訳、以分社、2003年発行、約580ページ

(この本を一か月かかって一応読了した。読了したが、この本を読んでわかること分からないこと分かりにくいことなどあって、全部理解できたというつもりはないし、逆にわからなさが重要なのかとも思えてくる。その後、手にした「さらば近代民主主義政治概念のポスト近代革命、アントニオ・ネグリ著2008年、作品社、を読んでからのほうがよくわかる仕掛けである。)

どんなことを語っているのか

大雑把にこの本を要約すれば、国民国家(資本主義国家)という近代の産物がそのグローバル化によって立ち行かなくなっているところへアメリカ的な国家ー「帝国」という超国家的な存在が立ち現れてきている。この「帝国」がマルチチュウード(という国民的枠組みを超えた労働者全体をさしており、以前の産業労働者のことではない)という新しいプロレタリアートを現出させており、彼らの持つパワー(潜在的能力)がこれからの資本主義後=帝国崩壊と崩壊のための世界の担い手となるというものだ。

そのテーマとは

資本主義はどうなっていくのかというテーマである。ある意味では理想の中に消えていったマルクスの共産主義というものが今後果たしていかなる変容を遂げていくのか、どのような仕方で、資本主義を終わらせ新しい未知の世界を切り開くのかというテーマを練り直して取り扱ったものといえる。ある意味近代の矛盾と近代の認識を批判的に考察して、この資本主義はどこへ行くのか、どのような問題に満ち溢れているのか、だからそれは終わるのか、という分析である

この本の最後のほうが、このマルチチュードが政治的主体として成長していくためには今後のの政治課題として、①グローバル市民権の獲得②賃金について市民権収入を考える。社会保障賃金というもの。具体的にはどういうものかは書いていない。③再領有、生産手段の再領有、これはかつてのプロレタリアートが機械、道具から分離されて商品としての労働者になっていることをものをマルクスが批判していることから、この考えのポストモダン的な提案として知、情報、コミュニケーション、情動への自由なアクセス。というものをあげている。これは働く現場では確かにアクセス権が制約されていることが多いのである。

結論的に

この本は社会科学的な壮大なテーマを扱っている。資本主義の終わりを考える、という事である。多くの知的な左翼からは非常に評判の良い本であったのではないか。あるいは時節柄アメリカのグローバルな超大国化がまさにイラク戦争で表れていたため時機にあった作品となったのではないか。アメリカは何故こんな大それたことが出来るのか?という疑問に応えてくれそうである。

大半の分析はどのように近代国民国家とは違う「帝国」が出現するのかという過程の分析に費やされている。これに対抗する軸としてマルチチュウードが想定されている。その政治的主体たるマルチチュードの実行すべき政治課題として先にあげた3つがある。グローバル市民権というのは確かに今後出てくる可能性はあると考えられる。どのように実行すべきか、その過程の問題や、この議論がなぜ出てきているのかという事は語られていない。ある意味唐突にこの3つの課題が出てきた。この課題は今までのかなりの抽象的議論からするとあまりに具体的で意表を突かれた思いがする。しかしそれはそれでいいのかもしれない。悠久の未来のことを語っている、などと言ったら怒られるかもしれないが、仮に遠い将来の目標(END)としての設定かもしれないのである。そういうように未来を見つめていくことは我々のいまの資本主義の全く違う到達点を意識させられて可能性を開くというものではないだろうか。ある意味の新しい地図を作ったのである。

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