空爆下のユーゴスラビアで、-涙の下から問いかける、ペーター・ハントケ 訳元吉瑞枝
同学社2001年6月発行
以前書いたコソボ紛争の中でペーター・ハントケの名前が出ていたのでこの人の本を読んでみたい、と思った。(ブログ;コソボを知るにはこの本を読むしかない)
この本は、ユーゴスラビア(1999年当時の)へのNATOの空爆下に、作家であるペーター・ハントケが2回現地視察をした時のある意味悲しい記録である。言葉が言葉にならない。切れ切れだ。物語れないのか、名詞を羅列するようになっている。
このペーター・ハントケという人はドイツ人で現代ドイツ文学を代表する作家のひとりである。コソボ紛争の時にNATOがセルビアの犯罪的行為をやめさせるために空爆を決めた。この空爆に反対した当時では唯一のドイツ知識人といわれた。欧米のイラク戦と同様な状況を最初にかぎつけた人物である。この空爆下でどれほどの人が死んだか。今でこそこの問題については批判的に語る人が多くなっているが、当時はペーター・ハントケは狂っている、精神異常ではないかといわれるくらいに孤立無縁だった、という。
視察ルート(この時期のどこからセルビアに入るか)
この文章を読むと彼はフランスからハンガリーへ飛行機で入ってハンガリーからセゲド、スボティツアというセルビア国境に入り、ベオグラードへ車で走りその後コソボ近くまで行く。ほとんど北からの南下である。ほとんどセルビアの南まで行く。もう一つの2回目のルートはスロベニアから入り、東に向かいベオグラード方面まで来る。その間、空爆があり、警戒情報のサイレンが鳴りという状態のセルビア地区を訪れているのである。しかし地図で見るとこの地区は山岳地帯であることがわかる。平地が異様に少ない。また素晴らしい河川があり橋も多い。そういう橋が破壊されていいる。彼が出会う人たちの話や爆撃を受けた橋や教会、建物を見て何を感じる、何を感じない、そこにいる人たちの姿を見て何を感じる、何を感じないというような話が続く。ドイツにはもう住みたくないとかフランスにはいたくないとか、ハンガリーも嫌だとかさらにその名前すらG,とかFとか記号で言いたくなるようになって来る。例えばNATOのあるベルギーは今までのようには意識できないとかパリはパリでなくなる。意識の中ではその町が変容されて意識される。嫌なもの醜悪なものとして。
ルートと地名
我々からすると彼が行ったルートの地名というのを追いかけるだけで大変である。地図には載っていないのではなく世界地図でもこの地域はヨーロッパなのか東欧なのか。端境のところでセルビアやモンテネグロやコソボそのものをページをまたぐことなしには、地図上の地名を探すことができない。
モノローグのような内容
その言葉にならない言葉の意味を今の自分はどう読めばいいのかわからない、が彼が語ろうとする危機的に重大なことは意識させられる。またなぜか悲しい感じがする。
この表題の副題にあるのは、最後の方で6000人のいる病院に勤務している女性医師が彼に聞く、セルビア人はどんな罪をか犯したんですか、と彼に聞く。こんな苦しみを受けるのであれば何か罪を犯したんですわ、という。どんな罪を犯したんですか教えてください、と悲痛に聞くのである。そこに涙が出てくる。そこで涙の下から問いかけ問いかけ問いかける、、という言葉が出てくる。戦争は莫大な金と国の最新鋭の機器を使って、組織全体で攻めてくる。恐ろしいことだ。誤爆に次ぐ誤爆で庶民が殺される。西側のプロパガンダ、メディアの虚報、作られた情報、色眼鏡といったレベルでは語れないほどの情報操作をされていることを彼は暴きたい衝動に駆られるが、片言でいうしかない。だからあるセルビアのアナウンサーは吃音になったという。語れないのである。すらすら。そういう人がふつうだという。
戦争は悲惨であるという本当の現実
我々はこの現実をよく知ることはできないが、戦争というものが悲惨であるという言葉の内側には、犠牲になる庶民の問題、文化的情報戦、プロパガンダというようなことからくる精神的な圧迫まであるということを知る必要がある。