パレスチナ人とは何か?サイードから

エドワード・W・サイード著「パレスチナとは何か」写真ジャン・モア、島弘之訳、岩波現代文庫、2005年発行(原著1995年岩波)

エドワード・w・サイードとは
この本は、パレスチナ出身アメリカで教鞭をとっていた世界でもっとも著名な思想家の一人である、エドワード・サイードの本である。彼のもっとも有名な本は「オリエンタリズム」(上・下、平凡社)である。「オリエンタリズム」は今もなお世界中で蔓延しているヨーロッパ中心主義(欧米という西側)という世界の視点を明確に問題視したのである。マルクスでさえ彼の批判にさらされている。欧米中心史観、欧米中心の世界観というものを徹底的に批判したものである。決してそのヨーロッパの文化遺産を否定したのではなくその視点を批判したのである。


そういう観点からでもあるが、この「パレスチナとは何か」はその欧米中心の考え方というものが現実にどういう問題を作り出しているのか、という現実に切り込んだテーマである。というより彼が切り込まれたといったほうがいいのか、巻き込まれている現実について書かれたものである。

また、ジャン・モネという写真家によって撮影されたパレスチナ人の写真が十数点あるが、話が途切れると、というか挿入のようにこの写真についての感想、見方、感じ方などを書いている。

中心のテーマ
要するにバルフォア宣言によって1948年イスラエルが建国されることによって、パレスチナ人は追放されたのである。また同地にとどまった人々は植民地化されてしまった。ヨルダン、レバノンなどへ移民させられ難民とされた。パレスチナ自治区にはユダヤ人の入植地というのがあり、既成事実化していき、パレスチナ人の土地の収奪など国際法違反の現実がある。それらの事は一向に改善されたり良い方向に向かうことがない。国連も分科会など開催してこの問題を取り扱うが、最近は出席する国がどんどん減っているようだ。中心テーマは第二次世界大戦後にイスラエル建国によってどれだけの悲惨、悲劇、が起こったかということであり、パレスチナ人の苦悶、悲しみ、というものが如何に現在的なものか、ということである。またこの語りだしたら止まらない情けないほどの話を山ほど語っても世界に理解されないという現実、歴史的に積み重ねられた現実に対しての無力感とともに心底冷静に怒っている。抑えつつ怒っている。

つい最近も
5月上旬に11日間のガザとイスラエルの間で戦闘があった。これは東エルサレムというところでイスラエルの軍隊がバリケードを作ってパレスチナ人が通ることができなくなったことによって怒ったパレスチナ側がロケット弾をイスラエル側に打ち込んだことによって始まった、と新聞は伝えている。この時のパレスチナ側の放送は本当に悲劇的な状況を伝えていた。イスラエルは好きなように人殺しをしているとインタビュウを受けた人は語っていた。
どれだけ人を殺したらこの戦いは終わるのだろうか。
またこの戦闘であるメディアはAI戦争だというようなことを言っている。また迎撃ミサイルの効果があって、イスラエル側は90パーセントのミサイルを撃ち落としたといっているそうだ。ものすごいシステムであるがこれはアメリカと共同で開発したものである。

サイードとパレスチナ人の苦しみ
この本はサイードがアメリカで悲しみながら怒りながら書いたものである。どれだけ怒ってもどれだけ悔しがっても解決の糸口が見えてこない。圧倒するイスラエルの軍事力、世界を味方につけた広報力、文化力、欧米視点の完成のような世界の風潮に対してなすすべがないというような、しかしなすすべがないといって黙っていられない、ない力を振り絞って書き出すというような内容である。だから思い付きのような散文とならざるを得ない。あの時はこうだった、こういう人もいたというようなある意味とぎれとぎれの記憶をたどっていきつつ怒りを抑え、爆発しそうな感情を抑えつつ苦しい問題の現実をさらけ出していく。こういう書き方もあるのだと思わせる語り口である。どういうことが苦しみであり悲しみであるのか、こういうことは論文形式で書くわけにはいかない。土地の問題やパスポートの問題そしてユダヤ人や世界のマスコミがかたるアラブ語の発音に至るまで問題視している。ユダヤ人が食べるようになったアラブの料理名を、勝手に変えるなといわんばかりである。
引用するとp231
”パレスチナ料理の数々は、イスラエル人の常食となった。タッブーレは、あるレストランのメニューには「キブーツ(イスラエルの農業共同体)・サラダ」として載っている。アラビア語の単語や人命をヘブライ語風に翻字する方法は、今や完璧なまでにアメリカのマスコミを占拠しており、これは不条理だと思われても仕方ないほど私を激怒させる。アラビア語の喉音h・はかつては英語のhとして翻字されるのが常であった。1982年以降はずっととりわけ、「ニューヨークタイムズ」紙が、khに変えてしまい、ヘブライ語の音声に最も近いものに対応するようになったのだ。かくして、レバノン最大の難民キャンプであるエイン・エル=ヒルウェ(「甘い泉」)はエイン・エル=キルウェと翻字されて・・・・・「空疎な場所にある泉」といった意味に近い。・・・・・・・・」”引用が長くなるのでここでやめるが発音の問題は意味を変えてしまうので本当に悔しいということだろう。この問題も非常に神経を逆なでるような感情をわき起こす。日本でも著名な人がスポーツの解説でもら抜き言葉を連発すると本当にその番組を見たくなるなるのとレベルは違うが、似たような感覚であろうか。
こういう様々なレベルでの感じ方を語っており一種の詩のような感じもある。美しいとさえ思われる。
また、イエーツの詩が引用されているが(本書p276)、この美しい詩の意味について読者が考えるようにうながされている。(後期の作、ここでは、「学童の中で」とあるが岩波文庫イエイツ詩集では「小学生たちの中で」という題名になっている。文庫本p239)
イスラエルという国
イスラエルという国は世界でも珍しくユダヤ教という宗教共同体なのである。このユダヤ教というのは、イスラム、キリスト教と深い親戚関係にある。特にそういう意味ではユダヤ教から二大宗教が生まれた、つまりキリスト教徒イスラム教である。そのユダヤ教の聖典である聖書には、キリスト教で言うところの旧約聖書の部分を聖典としているわけであるが、そこに書かれてあることは当然平和の神なのである。罪びとなる人間である。とくにイザヤ書には平和へのメッセージがが至る所に書かれており、ユダヤ人が人殺しを正当化するような箇所はどこにもないといっても過言ではない。非武装、中立主義では無論ないが、なにゆえにユダヤ教徒が名もない無垢の人々を殺すことが可能なのであるか。これはナチによるホロコーストのトラウマなのか。しかし、そんなことを言っても始まらない、といわれそうだ。この3大宗教の信者が歴史的にどれだけの殺害と侵略と強権的、暴力的支配、暴虐の限りを犯してきたかというようなことはカトリックの歴史を見ればよくわかる。十字軍もそうであるし、最近のアルカイダやイスラム国の恐るべき事件はまだ、まだ我々の脳裏に焼き付いて離れない。ユダヤ人は歴史的にディアスポラとなり集団的には逆に差別を受ける側であった。しかしナチ以降逆転である。現在は彼らがナチズムの完成のようなことをしているわけである。またバイデンに特徴的に表れているようにパレスチナ人への同情のかけらも示さない。イスラエルの防衛という攻撃は承認する、後ろでは和平工作をなんとかしていく。誤魔化しの政治を白人優位の中で遂行していく。恐るべきことである。この本によれば多くの著名なアメリカの雑誌は反イスラエルの記事は出さない、という。ある意味、ユダヤ人に聞いてみたいのはそういうユダヤ教の教理と反していないのか深刻な神への冒涜になっていないのか、2千年前のイザヤがユダヤ人を批判したようなことが今でも起こっているのはどういうわけなのか、と聞いてみたい。

終わりに
こういう本はなかなかない。反イスラエルを絶叫するだけで終わってしまう可能性もあったのである。しかしこのサイードは色んな感情、いろんな認識、いろんな考え方を含蓄を込めながらパレスチナ人の現在的苦しみを冷静に語っている。人間の書いたものではダンテの新曲に近深みと広がりを持っている。

参考としては、広河隆一「パレスチナ」岩波新書2002、藤村信「中東現代史」岩波新書1997などがわかりやすい。

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