「我が心は石にあらず」を読む

高橋和巳「わが心は石にあらず」新潮文庫、昭和46年発行(1971年)初出昭和39年から41年まで雑誌「自由」に掲載されたもの。

この本をなぜ読むのか

この本も吉本隆明と同様、我々の学生時代に超人気作家であった。会話の中にも高橋和巳がどういう事を言っていたとか、という話題になることもしばしばであった。あるいは彼の小説を読んだとか。そういうことがあって私も彼の小説を買ったのはいいがほとんど読んでいない。

積どくのも必要といわれているのでそれでもいいのかもしれないが、今振り返るとこんな当時のいかにも新左翼派の人気作家の何一つ読んでいないのは,自分の若い時代に起こったことを誰かと共感する手段もないような、ある意味自分自身残念な気持ちにさせられるのである。例えば長嶋の引退のあいさつとか、王のホームラン記録の更新とか、同時代の共感できる出来事が何もないという事に等しいような気にさせられる。そういう意味で今後もこの種の人たちの本を取り上げることになるかもしれない。ある意味では自分の若いころのこういう作家に決着というか自分なりの結論を下しておきたい気がする。

この小説の流れ

この小説は主人公がある地方の大手企業の支援により有名大学に行き卒業後はその地方の役に立つような仕事をすればその奨学金は返す必要がない、という事から地方のその企業に戻ってきたのである。そこでは彼はある意味エリートである。小説では知識人と書かれているが。そのエリートが組合活動を行い、指導者になる。時期的にいえば昭和40年前後だろう。主人公の年齢はたぶん46,7歳くらいで子供二人奥さんが多少病気、実の妹も同居している。非常な不景気が起こり、労働者の配置転換や一定期間の休職、指名解雇、などの会社側の施策と非常に対立することになる。その間ある意味、その組合の指導者、同士でもある女性と関係を持つようになる。最後はその女性は妊娠までしておなかが大きくなっていくところで終わる。結局最後には会社側と決裂してストライキを行うことになるが、それが第二組合などできて散々な結果となる。敗北である。

話のプロットは組合活動の流れ、ともう一つは同士である女性との関係が続いていく。この二つである。しかし本当はかれは組合活動のことを書きたかったのか、その女性のことを書きたかったのかは判然としない。人間がインテリでかつエリートで人生の中で、何かと戦う、その戦うという仕組みを追求するという事は仕事のようなものであるが、その仕事は本当は意味があったのか、ここでは組合の闘争である。その組合闘争は重要な意味を社会的にも人間的にも自分のためにも持ったのか、持っているのかという問いかけのようなものを感じる。ただ一つの疑問は同士のような存在であったその女性との関係はどうなっていくのか、どういう事を作者はこの女性という存在に意味を見出しているのか、はよくわからないままに終わるのである。あるところで家族にこのことがはっきりとばれたら大変な責任を負うことになり家庭の崩壊まで行くようになるかもしれないと不安になる、しかし結局はっきりとはそのことは分からずじまいとなったので社会的に葬られることはなく、安心できたという事なのか。そうであれば多少この小説は問題を残したという事になるだろう。

全体の印象

組合活動というものに対して非常に詳しい。その組合活動の理論のようなものも作中の人物に語らせたりしておりよく知っているなという印象である。しかし中味がそういう事で明るいものがあるわけでなく全体のトーンは暗い。それに理論が小説の中でも語られるので小難しいし面倒で読んでいて苦しくなる。更によくある活動家と女性の関係である。これもなにかこの小説を暗くしている印象がある。最後まで解決しないのである。

何故高橋和巳なのか語り口は生真面目、文体で言えば戦前の「生活の探求」の島木健作風である。堅い、暗い、生真面目、理屈っぽい、常に内省しながらの行動が描かれる。こういう生き方がこの時代にはあったのか。もう高度成長が始まったころではないか。日本の資本主義が、特に重化学工業が勃興していたころではなかったのか。しかし学生には不安があった。マルクスを学んだ学生が多い時代に、これからはいる企業はもっとも悪の権化ではないのかというような。資本主義の悪と不正のど真ん中に立たせられるのではないかというような不安があったのではないか。さらに自分は資本主義に管理されるのではないか、という不安。そこにうまく共感できるような内容である。結局最後には資本の力には勝てないというような厭戦ムードとさらに闘わなくても最後はいいのではないかというあきらめか?解放?への示唆なのではないかという部分もある。スターリン主義や日本共産党から距離を置いた左翼思想である。そういう意味では新左翼の小説といえるかも。

補)作者は39歳で亡くなっている。だから非常に若い頃(34、5歳くらいのはず)の作品だ。そういう意味での生硬さがある。またわたしの方はこの歳になって(71歳)読むと主人公は若干異常な性癖の人のように感じる。同居の妹にも危うい関係でありまともな人生を送れるようなタイプではなさそうだ。全共闘世代にうけたと言われる所以は本当はどこにあるのか?

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