武田清子著「背教者の系譜」岩波新書、1973
最初に
この本は古いものであるが、今読むとどういう事になるのか。そういう興味もあって読んだ。ただ今では限界があり古いのか、今なお価値ある作品であり続けているのか。(要するに丸山真男とか大塚久雄などの文化的知識人と言われている人たちの華やかなりしころの作品であり、われわれが学生時代に読んでいた本の一つである。)
背教者
背教者というものがなんであるか、という定義。これは、著者にとっては思想的に非常に価値ある背教者のことを指す。つまり教義に収まらないではみ出していく人々によって新たな思想が生まれているのではないかという問題意識だ。代表的な人物として木下順二を取り上げている。ここでいう背教者というのはキリスト教からの背教者であるが、それが日本の中である意味正当派キリスト教の枠に収まらないが故の背教者であることを自覚的に選び取った人のことを指し、かつそれが日本のエートスおよび思想をより豊かにするような思想になりうる可能性があるとしている。
背教者のイメージ
ただし、私見を言わせてもらえれば、現代の背教者とは本当はどういう人がイメージされるだろうか。江戸時代の隠れキリシタンの場合とか戦前のマルクス主義者とか何らかの権力による弾圧があって、持っていると社会的に抹殺される思想、信条から離脱するような場合かその種の弾圧がその人を左右して離脱せざるを得ない場合などではないだろうか。つまり背教者であることが政治的に弾圧を逃れたり、逆に以前持っていた思想や信条に反して権力に沿う形で協力したり裏切ったりすることではないかという気もする。現代の背教者というのはそういう政治的なことは一切ない。黙っていれば背教者であるかどうかなどということは一切わからないわけである。だから著者はある意味で広い意味での背教者というものを設定している。そういう政治的な場合だけを意味はしていない。
その中でほぼ最初の半分はこの定義なり例外なりの説明に終始している。最後の半分は木下順二という劇作家、戯曲家の非常に特異な考え方について書いてあり、ある意味彼に関しての評論であるかのようだ。
木下順二のどこに意味あるのか
木下順二の戯曲の特性や考え方はいろんなところに出てくるのでそういう対談やエッセイなどから読み取っていく。
木下の戯曲の特性とは、原罪意識ということである。これはキリスト教的であり、超越したものを見ている思想だということだ。また自己否定というキー概念が彼の持っている思想である。日本人の持った原罪は沖縄、朝鮮、中国だという。なぜこれを原罪意識かというと、自分がやったのではないが近代日本に生まれた自分の問題であることを背負わされている、ということだ。自己否定はオイディプス王の悲劇にあるように、自分の目をえぐって初めて今まで見えなかったものが見えるというところに木下は、このギリシャ悲劇を見ている。かつ本人が言うには戯曲というものはこの上を見る目と自己否定がなければ成立しないものだという。また対照的に近松門左衛門や、現代の秋元松代との比較であらわになるのであるが、近松や秋元は堕落の底に落ちていくことに快感さえ覚えるような世界にいる。それを是としてしまう立場である。そこには自己否定や原罪意識のかけらもない。否定はなくあるのは自然性であり、解決不能な絶望感である。その虚無の中に漂うことに人間の悲惨さと恐れを感じている。そこには人間の全くの方向転換による革新的な生活や思想を生み出せない、自然性をそのまま認める世界である。M.WEBERが言った魔術の園に遊んでいる。いまだに。
というような、著者の見解の中で、私自身木下順二の作品も秋元松代の本も読んだことはない。そういう意味では最低でも木下の本は読んでみたい気になった。課題が増えていくが、大事なことだろう。
近代思想の多様性
ほとんど前半部分を省略したが、ここに出てくる人の名前、ガンジー、マルチン・ルーサー・キング、ラインホールド・ニーバー、チャンドラボース、ネルー、ボンヘッファー、ティリッヒ、ハーヴィー・コックス、チェコのロマドカ、幸徳秋水、木下尚江、荒畑寒村、内村鑑三、矢内原忠雄、賀川豊彦、有島武郎、高畠基之、宮崎滔天、相馬黒光、柳宗悦、などなど。キリスト教正統派である人のほかにキリスト教の影響を受けてキリスト教の枠外に出ていった人々などが近代日本には数多く見いだされ、それぞれが興味深い。
戦前から戦後にかけて思想的苦闘の中で新しい思想を構築していった。それそれの位置づけに関しては簡単な説明があり、近代思想史のような観を見せている。
しかし彼らの個人個人の内面においてキリスト教、マルクス主義、天皇制との葛藤の中で新しい方向が生まれてきた。その内面の思想的な苦闘というものが多様な形であらわれている。そういうことから貴重な思想的な財産というものが近代日本にあるのだということを知ることになる。この本の別の面での重要なところではないだろうか。(現代の多様性という考え方をすれば、転向だから駄目だとか、マルクス主義だから、キリスト教だからという、あるいはその亜流だからとかそういうレッテルで判断しないほうがいい、という考え方が出てくるだろう。)
最後に
こうして読んでいくと本書のテーマは、背教者の問題ではなくて、抵抗者の問題ともいえる。現代の香港、中国というようなまたロシア、北朝鮮などの国々の抱えている問題における抵抗の思想の問題ともいえる。長い間かけて来た抵抗の思想と実践が、ガンジーから始まり黒人解放にも影響を与えた思想が、ここにきて頓挫し始めている。