エルンスト・ブロッホ「希望の原理」1.2.3巻、白水社1982年、山下肇他訳(原著1959年ズールカンプ社)
今回はこの本の第一巻をほぼ読了したというのでこのブログに載せようと思い立つ。
初めに
この本は私の若いころから一度は読んでみたい本の一つであった。しかし読む機会がこの年まではなかった。歳を取ってからのこの本に向かい合うには少し遅すぎているかもしれない。というのは、翻訳で一巻は大体650ページである。こんなに長い本を読むだけの忍耐力はかなり落ちているといえよう。足が丈夫でも70過ぎた男がマラソンをするようなものである。大変な事になる。しかし読み初めにはそんな大変な山岳が待っているともつゆ知らず、歩いていくうちにあまりに壮大な山でいろんな装備が必要だったということに気が付く。また読解するだけの力量も忍耐力も必要である。専門家であれば違うのかもしれないが、たぶん多くの人はこの本を読了しないでつまみ読みで終えているのではないか、とも思いたくなる。
この辺で前段を終えて
中身の検討に入る。この本は難解である。何を言っているのかよくわからない。いろんな話が出てくるがそれがこの本の表題となっている希望の原理とどういう関係にあるのかということは皆目わからない。富士山のふもとにある樹海に入った感もする。道に迷って疲れ果て倒れて死にそうな本だ。
しかし自分に鞭を打ち、
少しでも読んだ時間をとりもどす必要もあるのでどうにかして理解をしようと務めた。
結局、結論から言えば、彼の書いたユートピアの精神の線に沿って、つまりユートピアを夢見るという事が非常に重要である、ということ。そのユートピアは社会主義である。なぜ社会主義かといえば、階級社会は人間になっていない社会で、社会主義はやっと本来的な人間になれる社会であるということだ。希望に満ち、夢見、理想をもてる社会。それを提唱したマルクスの思想というものがまさにユートピアを志向し、我々に希望をもたらすのである。逆に言えば我々の希望というものが、マルクスの思想を形作った。つまりマルクスの思想はこういうユートピアや我々人間の願望がつかみ取った初めての思想というものであるという。この逆からのマルクスへの接近というテーマは泥沼のようでもあり、富士山の樹海のように曲がりくねっていて見通しが効かず、延々と語り終わることを知らない。たぶん迷う道へと通じているのかもしれない。人間の願望、夢、欲望そういうことの分析が長々と続く。いったいなんのためにと聞きたくなる内容でもある。つまり人間の欲動というものが、夢を作り、ユートピアを作り、理想を作りマルクスを作ったのである、ということだ。
この本を簡単に要約するとこういうことになるはずだ。
(間違っているようならどなたか教えてほしい。)
この著書に関連して
この本を読んでいると、しかし、彼のユダヤ・キリスト教思想というものがとぎれとぎれに見え隠れしているのではないかという感じがしてならない。というのは、「希望は恥に終わらない」(希望は失望に終わらない、という訳もある)というパウロのロマ書5,5にあるこの言葉と関連あるか、一脈通じている。この本の宣伝にも、昔見た記憶があるが、希望は挫折するか、というようなチラシがあったはずである。パウロの思想にも他にも似たような考え方がある。「目に見える希望は希望ではない。なぜなら現に見ていることを、どうして、なお、望む人がいるだろうか。私たちは忍耐してそれを待ち望むのである。」ロマ書8.24
このパウロの思想と似ているのは、「いまだ、ない」という彼特有の概念である。いまだないものを望むところに希望がある、かつユートピアもあるといっている。またこの「いまだ、ない」概念というのは力感がある。動的である。この時制、過去完了なのか、ギリシャ語に出てくる時制風である。これもヨーロッパ特有の表現であろう。
今もなおこの書は有益であり続けるのか
非常に簡単に説明をしたが、この本は今読んで有益かと言われれば、少し疑問もある。というのはやはり社会主義というのは、壮大な実験をした。そして大失敗に終わった。今まさにプーチンとEUが争いの渦中にあるが、燃え残した社会主義のカスがまだ燻ぶんでいるようでもある。北京オリンピックの最中の中国はどうかといえばこれは全くマルクスが提唱した社会主義とは言えない。社会主義とは言っているが、強権な開発独裁のような国家である。新しい冷戦も始まりそうな気配の中では、社会主義に希望を見出すことは可能であろうか。ブロッホが書いた時代にはソビエトは崩壊していなかった。まだ夢見ていた時代だ。
可能性としての社会主義に希望はあるのかないのか、はさらに今後の問題となる。持続可能社会とか脱炭素社会とか、気候変動問題などと言われて地球上の問題が目の前に迫りつつあるときに、経済的には地球規模で何らかの制限や監視が必要になり今までの成長一本やりの自由競争的資本主義をそのまま容認はできなくなる時代がやってくるだろう。地球の危機の時の、いまだない世界の構築というテーマとしては非常に重要かもしれない。ある意味柔らかいマルクス主義ともいえる。
しかし哲学者でマックス・ウェーバーとも親交のあった人であるというが、この本は壮大なパノラマのような知識を駆使して書かれている。この博識には頭が下がる、というより参る。またその問題意識は人間、人類にとって、希望の存在という絶対的に不可欠なものをテーマとしている。そういう人類に根本的なテーマを追求し語りつくせないくらいに語り、掘り下げているというのは非常に重要だ。こういうテーマについて書ける人は他にいるだろうか。そのくらい奥行きは深く幅は広い論調である。簡単に理解したとはとても言えない。再度、この本の最後まで読んだ時にはブログに載せたい。最後のほうはやはりマルクス主義のテーマになっている。
最期に
このマルクスとブロッホのユートピアと希望の問題というのは、ある意味宗教的なのである。キリスト教神学では救済史といっている。これとの関係もあるのか。マルクスにとって本当に宗教はアヘンであるのかという問題、実際ユダヤ教は一応宗教の形式の中にあり当然キリスト教もそうではあるが、実際聖書を手に取って読んでみるとわかるが、必ずしも安心立命というような世界のことは書かれていないのでありむしろ社会批判的な内容が圧倒している。特に旧約預言者は圧倒的に支配者への批判と一般の人間の罪、悪への批判に終始している。またイエスの言行録を書いた新約聖書は徹底して悪との戦いが中心となっている。特にイエスの最初の記事は悪霊との闘いからスタートしており最後はその悪そのものによって十字架にかかって死ぬのである。確かに人間の救済というものも書かれている。それだからアヘンなのか?むしろそれが彼の言うユートピアに対応するのではないのか。だからアヘンだと言われたものはむしろ違う意味のものなのだろうと考えられる。私としてはマルクスにしろブロッホにしろユダヤ人がこのユダヤ・キリスト教をアヘンとは絶対に思ってはいないはずだという確信がある。ある意味ユダヤ・キリスト教は救済宗教ではないのである。この本の中でもフォイエルバッハの宗教批判の話が出てくるが、ユダヤ人の考えた宗教批判とは実際どういうものであったかということを再度、さらに再度考察してみる必要を感じる。