ドイツ敗戦の時のハイデッガーの講演

「貧しさ」マルティン・ハイデッガー、フィリップ・ラクー・ラバルト、西山達也訳、解題、藤原書店

時代

この本は、ハイデッガーがドイツの敗北がはっきりした時の1945年6月にある城館で講演した時の、ヘルダーリンの言葉、「精神たちのコミュニズム」、という言葉をめぐって考察されている。

ある意味こういう本は専門家のものだろう。ハイデッガーのある特殊な用語から彼の全体の問題をえぐりだそうとするものなのか、ははっきりしない。しかしこのラクー・ラバルトという学者(ストラスブール大学、哲学)はハイデッガーのナチへの協力問題をかれの哲学の中に内在しているというようにとらえているようだ。

ナチへの協力

ハイデッガーのナチへの協力というのは、ハイデッガーがフライブルグ大学の総長だった時に約8か月間ナチへの親密な協力関係を明らかにした。しかし、その後幻滅したのかしなかったのかははっきりしないが、ナチへの協力関係は止めて、総長も辞任した。この問題に関して非常に多くの問題が戦後かまびすしく言われて来たらしい。ハイデッガーを語るときにはこの問題を避けては通れない状況となった。しかしこのラクー・ラバルトのように本格的に彼の哲学の中にナチ的体質が内在的に組み込まれているという批判は極めてあたらしいもののようだ。多くの著名哲学者がこの問題に関しては激論を交わしているようなので面白いと言えば面白いし、ハイデッガーに関心のない人には専門家のこざかしい論争のようにしか見えないだろう。(こういうテーマはカラヤンについても言われてきた。丸山真男は彼の音楽性にそのことが出ているというようなことを書いている。)

この本を理解するためには、本来的には「政治という虚構―ハイデッガー、芸術そして政治」(藤原書店、1992)を読んでおくべきだった。しかし「貧しさ」を読んで知ったことなので、さかのぼっていくしかない。い。ラクー・ラバルトのような学者は一般人にはあまり知られていない。 日本のこの分野の専門家、批評家にはありがたい学者ではないか。種本となりうるような玄人好みのする学者だろう。

内容

1、貧しさ           (ハイデッガー)

2、精神たちのコミュニズム   (ヘルダーリン)

3、貧しさを読む        (ラクー・ラバルト)

4、ドイツ精神史におけるマルクス(ラクー・ラバルト)

解題「貧しさ」-ある詩的断片の伝承をめぐって 西山達也

(1,2でハイデッガー、とヘルダーリンの短い講演の内容と文章を掲げてある。これはハイデッガーがヘルダーリンのある文章を引用しているためでその当の文章が載っている個所を2に掲げてある。これに関して3でこのハイデッガーがヘルダーリンを引用しつつ語ったことへの批判が展開される。4、の「マルクス」はヘルダーリンの「精神のコミュニズム」という言葉に関して語られる。最後の解題はまさにこれなくしてはこの本が何の本かわからないようなものであることを示している。)

ラクー・ラバルトの論旨

この本で語られている内容というのは、ハイデッガーが基本的に持っている思考、哲学それ自身に、ナチズム的ファシズム的なものが内在しているという事である。

その一説を引用すると

「貧しさ」の彼の講演に関してのラクー・ラバルトの批判はこういう個所に出ている。

ここでいう災厄の瞬間とはドイツ敗北の時という事であり、彼自身もナチ協力者として今後どのような立ち場におかれるか不明であり不安な時期のことをさしている。

「ハイデッガーが、災厄の深淵の縁においてさえ、あるいは災厄の完遂のうちにおいてさえ、ドイツに対して『精神革命』を。つまり形而上学とその『技術』としての世界支配を超え出る跳躍を要請したという事である。1933年の時点で、彼が妥協なしに、力づくで国民社会主義へと加担した時に信じていたものも、このような革命、このような跳躍だったのである。一年もしないうちに失望し、あるいは自らの『過誤』を真に確信したのではないにせよ、裏切られたと判断した時、ハイデッガーは同じ目論見をもって、あるいは同じ希望をもって、ヘルダーリンを「英雄」として選択した。このドイツ「民族」のいまだ理解されず、誤解された、秘せられた英雄が、いずれにせよ、ドイツの歴史的「負託」を担う高見にあることを、ハイデッガーは期待したのである。そして1945年、まさにこの日付において、なおもハイデッガーは同じ期待を繰り返し表明しているのだ-そのことを理解するすべを知る聴衆に語り掛けることによって。以来、ハイデッガーは倦むことなく反復し続けた。」p71

これは「ナチ神話」(前回ブログにて扱った。)に書かれているように、ナチのローゼンベルグと同様にドイツ的神話を夢見ていたという事である。

次の文章もハイデッガーがドイツ的精神、ドイツの国民的精神をかれは強調している。

「ハイデッガーが1934年にヘルダーリンを預言者として選んだという事実から出発しなければならない。この預言者の使命とは、ドイツ人の歴史-命運的現存在に課された使命であり-しかも『我々はだれであるか』という執拗な問いが帰結する-つまりハイデッガーが、以後、詩人によって告知された真理を述べるという責務を負った思索者として自らを引き受けた、原-政治的な使命であった。これが、実際に、国民精神主義なのである。」p82、特に彼の強調する国民・精神これこそナチと共通する言語であった。

結論として、ラクー・ラバルトの論旨は入り組んでいてなかなか素直にわかったとは言えないような曲がりくねった論理である。またそのアプローチもハイデッガーのあれやこれやの膨大な文章の意図するところ、当時の語彙の使われ方まで調べていてハイデッガーの内在的批判としては徹底しているのではないだろうか。こういう事はニーチェに対してもいえることになるだろう。

追補

4の「マルクス」の関連で言えば、マルクスはルター主義、ヒットラーはカトリックのイエズス会。

本の場所はどこかか忘れたが、最後のマルクスのところに出てくるが、要するにルターの万人祭司制(この本では番人司祭制と書かれている)という考え方にマルクスは非常な関心を長い間持っており、万人が祭司となるという分け隔てのない世界、教皇主義の位階制からの解放という考え方に強い関心を持っていたという事を書いている。プロレタリアート独裁や社会主義国家などは想像もしていいなかったという事のようだ。だから宗教問題の現代性が重要である、という事も書かれている。この点に関しては非常に重要な考え方なのであって、別途ラクー・ラバルトの論理の中ではっきりと示すことができればと願っている。

もう一つ追補:ハイデッガーの文章は戦後書き直されたり修正されたりしているようだし、その原テキストはハイデッガーの文書の所有権のある人しか見られない、らしい、という事が書かれている。驚くべきことであり、恐ろしいことでもある。

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