吉本隆明、共同幻想論、吉本隆明全著作集11、勁草書房、1972年(初出1966年雑誌文芸、単行本としては1967年河出書房新社発行)
この本をなぜ読むか
知り合いからぜひこの本を読んでくれという依頼もある。また学生時代超人気のあった人の代表作でもある。然し私は、この本を読んでいない。というか学生時代か卒業してからか買った本であることは間違いがないが、少し手にして、興味なく読み捨てられていた、というところである。多少最初の方に棒線がひかれているようなところもあり、少し読んだ形跡はある。
この本の意義
①共同幻想というのは、どこかで、彼が書いているが、国家がなぜ成立しているのかという秘密を探るための必須の概念である。また日本の国家を対象としている。マルクス主義の吉本隆明からすれば、マルクス主義に異を唱えているような論文である。つまり経済という下部構造が意識を決定する、という教条マルクス主義の理解からすれば、上部構造である文化の解明に幻想という概念を使って国家成立の構造の秘密を探ろうというのは正統派ではないだろう。むしろ異端であり、反教条主義である。
②また、現在この本を読む意味は本当にあるか。つまりマルクス主義がソ連崩壊とともにその神話が崩れてしまった現在、つまり冷戦が終結した状況では、教条マルクス主義の問題はもろくも、また当然であるが消えてしまったため、教条マルクス主義に異を唱えることも終結したのである。逆にいえばマルクス研究は今や自由度を増しているので、反教条マルクス主義などというのは、相手がいない状態となっている。だから、吉本隆明は先見の明があったと言える。これは間違いのないところだろう。1970年代にこういうことを言える人物はあまりいないのであるから。
③当時の学生運動の人たちには非常に人気があったことは間違いがない。左翼シンパ的な人たちにも人気があった。なぜか、これは大学での授業に心底嫌になった人たちにはある意味救済する力があったのではないか。大学の学問が最初授業を受けるとその学問の意味の説明なく非常に狭い専門分野にこだわった授業が行われる。数学とか語学とかはいいのであるが、その他の学問と称する授業ははっきり言って何のために勉強するの?という疑問がわきおこる。今もなおそうであるが、先生たちは自分の専門分野にこだわりその狭い世界で語りだす。それが学生たちを学問への興味を失わせていくのである。1970年代の学生運動が消えていく頃、専門馬鹿という言葉から学際という言葉が使われ始めた。学際が必要だと。多少その専門性の問題が反省されたのではないか。然し学際問題も成功していることもないだろう。そのうちこの学際的という用語はなくなってきている。当時の、大げさに言えば若い青年は人生の意義、社会でどのように意義ある生活ができるかを知りに来ているのである。意義ある人間はどのように社会を理解しどのような行動をとる必要があるのか、という疑問である。それがゆえに学問をしようとしているのである。この問題に答えられないために学生運動は全国に広がった。当時の時代的風潮もあった。東大では無給医の問題、院生の無償労働など、ウェーバーのロシア革命論を訳した林道義は、この問題をあとがきに書いている。学生運動も起こりうる、と。
この本の内容
この本はそういう意味では、まさに自分の置かれている状況をよく分析して知り、自分の行動を主体的に起こすべきであるという観点によって書かかれてと言えると思う。世間の言っている嘘を見破り、本来の認識はどこにあるべきか、どういう欺瞞が世界の認識の中にはあるのか、という強い主張のある論文だ。
①二つの軸があって、柳田国男と古事記である。この、特に柳田国男の遠野物語をフロイトの社会心理学的理解によって分析しているといってよいだろう。この柳田という人と吉本は相性がいいと思う。多分吉本は彼の民俗学から多大な影響を受けていると思われる。書いてはいないが。フロイトの影響の方が大きいという事は自他ともに認めているようだ。
民俗学は地方に伝わる民話や行事からその行われている意味を解明する学問である。なぜ巫女がいるのか、なぜ巫女はそのような宗教行事を行うのか、特に古い民話や古い行事ほど価値を持っているようにも思える。であるからこの学問というのは天皇の行事は一番興味の対象となってきたのである。
②共同幻想という言葉は意外に魅力ある言葉であって、本来的には共同の意識といってよいはずである。国家形成の原初における共同の意識とは何か、というテーマである。中味はある意味の不合理な世界、つまり民俗学的な世界を対象化してみると、共同の意識の発生という事から国家成立の秘密がわかるのではないか、という事である。本来的にはこれがわかってくると当時の日本で何が必要なのか、革命なのか改革なのか、何を良くしなければならないのかという事が見えてくるという事だ。経済革命なのか文化革命なのか?そういう戦略というものは描けるのか?相当な実践を意識して書かれている。当時の学生、青年たちにとって幻想という言葉は魅力があった(特に田舎、地方から都会へ来た学生には)。せっかく入った大学も幻想かもしれないと考え直した人も多かったであろう。高度経済成長期、公害が蔓延して何かおかしいと感じざるを得なかったのである。大学の学問も教条主義のマルクス主義も就職先である大企業も問題あるのに隠されているものがある。よい経済成長は良い人生に直結するのだというのも幻想ではないか。自分はその幻想に振り回されているのではないか、という疑念を刺激したといってよいだろう。(「自己否定」という学生運動の立て看板があったのも彼の影響かもしれない。)
結論的に
そういうわけで当時の学生には相当の人気があったしある意味カリスマであった。強い戦闘意欲のある論陣を張ることができる稀有の人であった。自分の立っている場所、自分が何をしようとしているかを明確にしながら、自分の主体性を出して行くような論文の書き方は学校の先生ではない。思想家である。
しかしここで私の疑問を出してみると、この論文はM・ウェーバーの言うところの支配、被支配、伝統的、形式的、合理的支配それにエートス論、そして魔術の園論などの見方を加えればさらに面白くなったのにと思えるのである。彼は、M・ウェーバーを知らなかったかもしれない。ある意味残念である。思想というのは研究とは違う。研究から総合的な立論をする必要がある。自分の概念を作り上げていく必要がある。だから彼の論文は思想を構築しようとした大きな試みだった。