他人の存在について考えてみる

デカルト的省察、エドムンド・フッサール、翻訳浜渦辰二、岩波文庫、2001年(原著1931パリ)

この本をなぜ読むか

現象学という哲学のためには避けて通ることのできない分野である、ということと、ハイデッガーの先生であった、またその後は(ハイデッガーと喧嘩別れしたようだが)ハイデッガー経由かJ・P・サルトルやまたその他世界の哲学者(今は日本でも有名なガブリエル・マルセルやレヴィナスなど)に影響を与えた学者の本であるという事。この人の本はみすずから出ている論理学なども持っているが、読む気力は湧かない。与えられた能力で読めるぎりぎりの本がこの「デカルト的省察」である。というかこの題名からして読めそうな雰囲気をたたえていた。更に岩波文庫である。この本を一般の人が読む必要があるのか。カントの純粋理性批判は岩波文庫で50刷を超えているということだが、まさに、このフッサールの本は教養?のためとしかいえないが、この年になってこのような本を読むことは読力の挑戦でもある。どこまで理解可能か、ダメなら低山趣味でもいいという事にしないとダメだ。

(なお、中島義道著「カントの読み方」ちくま新書、では4つの読み方の心構えをしている。

①分からないところをわかったと思わないこと②絶えずこういう事ではないかと仮説を立てる。③仮説を立てたことでほかの個所も読めるのか確認する。④常識を大切にする、変だと思ったら高級と思わないこと。≪本文を多少改変≫・・・とある。また読み解く秘訣はないとある。時間をかけて理解していくしかない。・・・それはその通り。)

 

難しい用語が多い

この本にはむつかしい用語がたくさん使われている。超越論的、超越論的現象学、判断停止(エポケー)超越論的還元、ノエマ、ノエシス、間主観性、フレムト、指向性などなど。しかしこれはカントの本よりはやさしいと言っていいだろう。

 

内容

基本的にはデカルトの「われ思うゆえにわれあり」という限りなく疑う事の出来ない大前提として思う我があるという事から考えるすべての出発点にしたいという、思想がありこのデカルトのこの有名な句が近代思想の始まりであると言われてもいるのであるが、フッサールはこの考え方を活かし批判しつつ自分の超越論的現象学に結び付けていく。

 

「我」だけから「他我」へ

中島義道氏のいう通り分かったつもりにはならないが、私なりの曲解、誤読をあえて承知で言えば、デカルトの言う「我」というエゴを明確にしたうえで、さらに彼は「他我」という言葉によって他人というものの存在を明らかにしたと言える。またこの「我」と「他我」との関係を間主観性というがその関係についても明確にした。

デカルトまでの時代は彼の意図とは関係なく個人という自分を発見したのである。個人というのは私という個人である。それもヨーロッパにいる個人である私だ。他人は発見されていない。このデカルトの時点では他人は存在しない。自分だけが世界の中心なのである。このフッサールによって他人が新たに見えてきたのである。他人も世界の中心である。他人の存在というものが明確になった。このためには長い時間がかかった。

 

この本の構成

この本は第一省察から第五省察まであり、前半はこの個人の我の解明である。超越論的な還元を施して、私の「我=エゴ}の明らかな明証性の理解と後半は他人の発見に費やされている。これでサルトルが他人のまなざしという言葉を言った意味がやっと分かる。

 

フッサールの現象学

認識というのは、フッサールによればカメラのようなものである。レーザーを当てて距離を測距してピントを合わせるあのカメラである。自分はカメラから対象を覗いている。しかしそこに映っている像は光とレーザーで反射して戻ってきたものを見ているのである。またカメラと対象があって光が媒介して、自分の網膜に映像を作っているという構造全体を想定するのは還元作用というのである。(然しこのカメラモデルは間違っているという人もいるので私だけの理解としては分かりやすい)だからこの時点では自分はいるのだが対象があるだけで他人の存在はないのである。この他人の存在のことを「我」と異なるもの,「他我」と呼ぶ。まだこの時点では彼は世界の中心でもない。単に対象となっているだけだ。その対象が、自分と同様に世界の中心として立っていることを認識できるのは最後の最後になって「共現前」という言葉が出てからである。モナド的「共現前」という孤立した「我」と「他我」が共に存在している、という状態への認識に至るのである。

 

他人の存在意識への長い道のり

こんな簡単なことが長く書かれているのは、「我」や「他我」の前提となっている所属している共同体や文化や言語などや装飾のようにその本人にまとわれているもの(名前とか役割、父とか母とか女とか)を剥いで行く作業があるからである。またこの「共現前」というところまで来るのには長い工程があって、この「我」と「他我」の対になるものが互いの存在を認識するとはどういう事かという事について、「他我」の「経験」という需要語句を使いながら、こういっている。

「対になるものが同時にしかも際立てられて意識されるや否や、直ちに発生的に現れる。もっと詳しく言えば、対象的な意味が交互に生き生きと呼び覚ましあう事、交互に押しかぶせながら覆いあう事である。」同文庫p202この表現、哲学的ではない言葉使いが面白いのではないか。

 

結論的に

この第三者である自分以外の存在というものを認識できるかどうか、という事は非常に重要である。というのは、我々人間にとって向かいあう存在が世界の中心であり、その人が自分を中心にすべての世界を見ているとは普通では到底思えないことである。いるとかあるということは感じている。しかし私が世界の主人公である如く、その人が世界の主人公であるというようには考えない。それは会社の上司や部下であったり、兄弟だったり、親せきだったりと自分との「関係」だけはあるが存在認識に至らない。この本はこの「我」と「他我」の「断絶」と「共にある関係」の深い謎に迫ったと言っていいのではないか。しかし実際のところ解決はされていないのではないか。哲学の限界を見る思いと言ったら失礼だろうか。謎に迫ろうとして深追いしただけという事かもしれない。それはたぶんハイデッガーにも言えるかもしれない。

 

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