極寒の収容所で学ばれたプルースト

「収容所のプルースト」著者;ジョゼフ・チャプスキ、2018年発行、出版;共和国
この本は1940年から41年にかけてソビエトのグリャーゾベッツ収容所で、冬の間にチャプスキが極寒の中でポーランド人将校らに講義した内容が訳されたものである

この本は朝日新聞の2018年7月8日付けの読書欄にて紹介された。
場所は地図を見るとキエフとモスクワを結ぶ南北の線のキエフ寄りのところである。
マイナス40度の中での本も何もなしでの講義で、収容所を生き抜くために、なくなりそうな知性をふり絞っての講義だったようだ。こういうことはフランクルなどでも言われているが危機的状況の中で生きるために知性が必要だということはナチの収容所でもあった。しかし収容所での講義となると今の我々にとっては臨場感はないが非常な興味を掻き立てられる。
この収容所にポーランド人将校が五百人程いたようだ。連れてこられその後ではカティンの森で殺された人が大半とのことだ。偶然この方はカティンの森は免れた。戦後解放された後に彼はそのことを知り調査を始めた。
「精神の衰弱と絶望を乗り越えて頭脳がさび付くのを防ぐために知的作業に取り掛かかった」とある。これは事前検閲すれば許されていた、とのことのようだ。

プルーストの講義とは何か。
フランスの作家マルセルプルースト(1871~1920)の時代は、ダウントン・アービーのイギリス貴族の物語と同時代である。ダウントン・アビーを見ている方は貴族というものがどんなものか想像がつく話だ。要するに働かなくていい。働くことは卑しいことで、社交というのがすべてのような生活を送るのが彼らの人生だ。その社交界の話がもっぱらの場面設定となっているのがプルーストの「失われた時を求めて」である。ジョイスなどと並び世界文学の一つである。読んだ方はあまりいないと思うが、全訳が出たのも最近のことだ。岩波版では14冊(集英社版で13冊)であるから読みこなすのも相当にむつかしい。こういう私も昔々に少しばかり1巻のスワン家のかなたに、を少しばかり読んだに過ぎない。
 プルーストについては何も語る資格もないが、このポーランド人の収容所での話の内容について簡単に書いておく。
もっと深刻な作家のものをこの講義で選べばよかったものをと思いながら、この本を読むと
なぜプルーストの「失われた時を求めて」なのかそれがおぼれげながらわかる。なぜプルーストかとプルーストの何をこの講義は目指しているのか。

簡単に言えば、二つ、プルーストの創作の秘密、創造の秘密という点、そしてなお今苦しい状況にある収容所にいるポーランド人への何らかの希望、何らかの生き方を提示したいと思ったのではないか、ということがうかがわれる。この2点は絡まっており創作の秘密はプルーストの生き方の秘密でもありそこがこのポーランド人の共感できるところなのではと推測される。

参考になるところを、2,3挙げるとすれば、
「何らかの印象に触れた瞬間の感激をすぐに吐き出すのではなく、印象を深め、正確に見極め、その根源にまで至ることでそれを意識化することこそ、自分の義務だ」「感じたことをすぐ外在化するのではなく、印象を深めることこそが自分の主要な義務である。」
「主人公は、今や明晰な熱狂の中で、彼の人生に革命をもたらす呼び声をはっきりと聞きながらパーティの時間を過ごします。この集まりで、主人公は自分の人生にかかわった多くの知人友人たちが、時の作用によって変貌し、年老いて、膨れ上がり、あるいはかさかさに乾いてしまったのを目撃することになります。台頭してくる若い世代が、彼の年老いた、または死んでしまった友人たちとそっくりな希望を抱いていることに、胸を衝かれるような衝撃を覚えます。しかし彼はこうしたすべてを、明晰で、距離を置いた、自分とは切り離された新しい目で眺め、ついになぜ自分が生きてきたかを悟ります。彼だけが、この人々の群れの中で、今はいない人々を再び生き返らせることができるのです。その確信があまりに強く、死について無関心になってしまうほどでした。家に帰る途中、膨大な仕事を実現していく作業に取り掛かろうとしながら、最初に通りかかった路面電車に突然轢かれてしまうかもしれないしまうかもしれないことに思い至ります。」

少し長い引用だが、起こったことを反省的にとらえていくという作業のことと死を忘れるほど重要な仕事を発見したということが言われている。つまり文学の創造の秘密と生きる意味とを発見した時のことが述べられていると推測される。これがこの収容所での講義の核心であった。彼らのおかれている状況にすぐさま当然ある不満や不平というものをすぐ出さないで反省的にとらえる。何が起こっているのか、なぜこうなっているのかという思考を重ねていくことの重要性と死を忘れるほどの生き方とは何か。恐ろしい死と向き合っている彼らの感情を超えるものの模索をこのプルーストから得たかったのではないか。
こう考えてくると、貴族社会の社交界の話題が設定場面ではあるがやはり世界文学の一つであるだろう。少しこの分厚い小説を読んでみようという気になり始めてきた。以前は意識の流れ派というようなことが言われていたようだが、今はそういわれていない。また最近の再評価があるのかもしれない。非常に興味深い作品にぶち当たった。

コメントを残す