「作品としての社会科学」内田義彦、同時代ライブラリー35、岩波書店、1992年発行(原著は1981年)
内田義彦という人、略歴
1913年生まれ、1989年没戦前の東京帝国大学を卒業して戦後は専修大学の教授でアダム・スミスとカール・マルクスの研究を主として、専門は経済学説史である。丸山眞男、大塚久雄と並んで市民派と言われてきた。岩波新書の「社会認識の歩み」は有名。また「経済学の生誕」未来社は我々学生時代の教科書でもあった。経済学初心者にもわかりやすく易しい言葉でマルクスや社会科学を教えた。
89年没ということであるからソビエト終焉を見ずなくなったということだ。
以下は余談
91年のソビエト崩壊はマルクス主義の陣営をも総崩れにし、資本論の世界をも崩壊しそうな勢いであった。すぐにそこから転向した方も多いようである。大学で言うところのマル経(マルクス経済学)と当時は近経(近代経済学)の両科目が並立してあった。今では中国でさえ近経の学問をしているようなのでマル経はほぼすたれたのではないか。現在は経済思想史の中で講義されているようである。これは的場昭弘教授(神奈川大学)がつとに言っている話である
またこのソビエト崩壊を先取りするように市民社会論という方向へマルクス主義も変化していく。(最優先事項としての市民的人権の必要性からか)市民的世界が構築してきた文化の重要性、とすでにある歴史的に獲得した西洋的権利の確保(民主主義、選挙権、人権等々)そこから近代化論というものも生まれてきて広汎に支持を得ていた。丸山、大塚、内田といった人々その他大勢いるが、一方でそういう市民社会論なんてけしからんという方たちもおられる。マルクスの追求してきた考え方を変質させないでそれをふかめていくことが最重要だという学者も日本にも外国にも多い。ネグリ、ハートなど。(疎外論、労働者搾取論、剰余価値論など、そこから資本主義崩壊論、資本主義の終焉も叫ばれる。)
この本をなぜ読むのか
「作品としての社会科学」という言葉は興味を抱かせかつひきつけられる、という理由である。(またこの題名の本が大佛次郎賞をとった。)これは社会科学の文学論か、小説のように読める社会科学が必要だ、といっているのか。またマルクスの資本論その他はルターから始まりシェイクスピアの引用が非常に多いということから作品として読んで面白く読者の興味を引くようなものになっているかというようなことか。しかし専門書ではないな、という感じもあったので書棚には相当昔からおいてあった(30年も、原著からすれば40年もたっている。)が、読まない本の一つであった。しかしいつかは読もうと思っていた。気になっていた本であった。
内容の概略
この本は最初の章の「社会科学の視座」というのがこの本の「作品としての社会科学」というテーマの中心であり、ほかの文章はその例題のようなものであるといったら怒られるか。まずこの社会科学の視座というものをじっくり読む必要がある。ここに大事なことはすべて書いてあるといっても過言ではない。
概念と現実
社会科学としての経済学の概念は結構むつかしい。このむつかしい言葉をどうやって理解していくか。
彼は大学で一つ、二つくらいの概念を理解すれば十分ではないかということを言っている。
その概念を使って現実を見てみる。どういうように見えるか、それで現実がはっきり見えてくるのかこないのか、というようなことをやっていると突然理解ができることがある。
この話は、私にとってこのように考えられる。現実を見る目というのは、いろんな情報をかき集めて、さらに情報、さらに新しい情報を知ることによって見えてくるという人もいるだろうが、この内田式考え方はそうではなくて、新情報も重要ではあろうが、今持っている情報を整理してみて今自分が知っている概念(例えば疎外、例えばエートス)などで考え直したら分からないだろうか、という事である。いくら詳細な情報をもってしてもある重要な先達の考えた概念なしには見えてこない現実がある。
この概念は違う状況でも使えるのか、同じように考えられるのか、そういうことをむしろやったほうが現実を見る目は養われるということだ。
またその概念というものが日常語を使っている。その日常語と概念の関係を行ったり来たりしながらなぜその言葉を使っているのかということ常時考えながら、あるいは反省しながらその言葉を使っていく。その日常のほうへ行かないと読者は社会を見る目が養われないという。概念のほうばかり目をむけていると社会科学学、あるいは経済学学、つまり出来上がった学問体系を絶対的にうのみにしてそれを有り難く学ぶのでは逆に社会を見る目が作れない。さらに悪くすればそういう学問は管理の学になりやすい。
密室で一人考えるということ
彼の眼目はこういうことではないだろうか。そういう種類の社会科学の本を読む一人一人の人が本当に社会認識を深め、自己内にコペルニクス的変化を起こしていく、そういうことが社会全体を良くしていく。それなくして専門家の語るご意見の結果や学問体系の絶対視では決して社会はよくならない。内田義彦は、一般読者が自分の情けない小さな頭脳を悩ましで考える、また密室で自分が世界を背負い込んでいく事を自分のどうしようもないミッションとして引き受けるような、そういう人に向けて社会科学の本は書かれなければならない、という。
最後に「作品としての社会科学」
この意味は何か。マルクスにしてもアダムスミスにしても二人に共通する本の向け先は、専門家向けではなかった。(内田義彦は生産者の生産財ではなくて、という表現をする。生産財というのは簡単にいえば専門家にのみ評価されるものとして書かれたものという意味である。)彼らの本は一般読者向けに書かれている。どれだけむつかしくても、学者でさえ歯が立たないところがあるにしてもあくまでも一般読者向けに書かれた。(消費者の消費財として書かれたという)この消費者という一般読者がこの社会科学によって目が開かれ、社会認識が深められて行かない限り、社会がよくなるということはない、と思ってこの両巨頭は書いた。それが社会科学の重要な本となった。これが作品としての意味だろう。小説のように一般読者に向けて理解されるべき本として出版されたのだった。