ソクラテスの対話、現代に一番必要なもの

ソクラテスの「弁明」「クリトン」「パイドン」

戦争とその解説者たち

我々の時代には戦争などありえないと思っていた。ベトナム戦争で戦争は終わったはずだった。しかし世界は戦争をし続けていた。それは局地戦的なものでしかない。いわゆる紛争と言われるものだった。しかし今や本格的な国と国との戦争が起こった。戦争は端的に殺し合いとなっている。ウクライナ、ロシア双方で10万人以上の死者を出している。またパレスチナの人々は3万9千人すでに死んでいる。(24,07,23現在のニュースで)

まさに殺し合いだ。我々はそれを新聞やテレビやユーチューブで見たり聞いたりしている。取材をしている人たちも大変だ。また識者がいろいろ出て来る。これだけ戦争に詳しい人が日本にもたくさんいるんだということ、さらに言えば東大にもその種の専門家がいる。自衛隊にも当然ながら情勢分析ためにいる。また笹川平和財団なるものもこのウクライナ、ロシア、中国についても詳しい。この現実の状況を解説できるだけの研究をしている人たちがたくさんいる。どういう人がこの人たちを養っているのか。どういう目的でそういう研究組織があるのか。そういうところに何となく疑問もわく。軍備についても非常に詳しく知っておられる方も多い。

大学では、世界史とは何か、あるいは近代とは何かというような大きな抽象的テーマを研究しているとばかり思っていたのだが、しかしそれは間違っていた。日々の世界情勢について研究している学者も多いということだ。現代、政治史、国際関係論というような一般論的なものでもなくもっと即事的、もっと即物的な、もっと現実的な研究が行われているということがわかる。これも50年前に大学を卒業したものにとって不思議に感じることである。

状況を追うのではなく単純な考えが欲しい

こういうことを考えているうちに、もっとすっきりした、変わらないもの、単純な普遍的な考え方のもとにある思考というものに着目したい、と思った。それでギリシャ哲学の元祖、ソクラテスに注目した。しかしそういう目的は達せられなかったというのが正直なところである。

ソクラテスの弁明、とクリトン、パイドンはこの3つは関連があった。

偶然中央公論社の世界の名著のなかのソクラテスの弁明、を読んだら、次のページをめくると関連した話が続く、さらに最後のパイドンも同様だった。ソクラテスの死にまつわる三部作といってもいいような内容だ。読んでみて初めて関連があるということが分かった。

この三冊の本の内容をかいつまんで要約すればこういうことである。

1.弁明、

は、これは裁判である。裁判で訴えられてその訴えに対して弁明している内容である。訴状の内容は弁明の中からある程度想像できる。

基本的な訴状は、「ソクラテスは犯罪者である。天上、地下の事を探求し、弱論を強弁、いらざる振る舞いかつ他人にもそれを教えている。」これはメレトスという背後に後ろ盾のある者が訴えたということだ。内容を読めば大対分かるが、ソクラテスが、若い人を彼の哲学、問答法あるいは対話法の論理でギリシャ市民らしからざる教えを説いているのではないかという犯罪的疑念を抱かれた。あるいはそういうことを妬ましく思って彼を裁判にかけた。つまり若い人たちをギリシャの神々とは違う邪教で悪い思想へ導いている、ということだ。

また、一方でソクラテスは知者と呼ばれていた。これは神々からの神託があったという。そのため自らどういうところが知者なのかをいろんな人たちと話したり聞いたりして自分のどこが知者なのか、ということを確かめていくくだりがある。そこで、いろんな秀でた方たちと話してみてわかったのは、自分が何も知らないということ、わずかそのことで彼らより知者である、ということが分かったというのである。こういうことからして彼は多くの人たちから憎まれていることを感じていた。たぶんそのことも含めて最初の訴状となったのだろう。結論から言えば500人いる裁判官のうち280人が有罪とした。220人が無罪とした。これで有罪が決まった。

彼はこの裁判の時期には70歳だった。(これを見聞きして書き残したのはプラトンで当時29歳という。)

70過ぎた男が裁判で皆にこびを売って助けてくれというのは自分の本意ではないという、強い信念のもと、判決には潔く従うという覚悟でいた。弁明といっても彼は弁解しているわけではなく、結局彼の問答法というか対話法というか、出された訴状の考え方や大方の人たちが思っていることの矛盾というものを一つ一つ明確にする。これもまた聴いているほうからすればやや不埒な奴ということになるかもしれない。結果は有罪だった。

2,クリトン、

というのはクリトンという弟子のような存在が、牢屋に入っているソクラテスを訪ねて、逃亡しようではないか、とかこのまま牢獄にいて毒杯を飲まされるのは問題ある、とソクラテスに言うと、それに対して論理的にそういうことが如何におかしいかということを諄々とソクラテスの弟子に説くというような内容だ。

3,パイドン

というのは、これもパイドンという弟子のような存在が、ソクラテスが死ぬ当日やってきて、死ぬまでの間、哲学論議でもしたいというソクラテスの希望もあって話に来たのである。内容は哲学者の志向しているもの。また神々とともに過ごせるのかというようなこと、霊魂は不滅か、という内容である。これも問答法というか対話法というのか一つ一つパイドンが言うことを吟味して論理的にはこの考えは過ちであるとか死ぬまで論理にこだわった会話をしている。そういう意味では泣き言一つなく死後の心配もしないでさわやかな死という感じを抱かせる。

その最後には毒杯を飲む場面があってこれはなかなか厳しい書き方をしている、と感じた。

(毒杯というのは毒ニンジンをすりつぶしたもの液体を混ぜて飲めるようにしたものであるようだ。)

ソクラテスの考え方の一番の特徴、2つある。

1,これは死ぬということに恐れがないという考え方。一つは魂は死なないという考え方。よい魂は神とともにあり死後も幸せである。また哲学する魂は一番神に近い。こういう考え方である。この考えは当時の知識人=哲学者はそう思っていたようだ。もう一つはギリシャ市民としての良い生き方、ギリシャという市民国家を信じて生きてきたソクラテスにとって市民として如何に市民らしく生きるか、これは法を守るということと同義だろう、が重要なのであって、自分が間違っていなくても裁判でさばかれた場合は潔くその裁判に従うという考え方である。これが市民としての一番良い生き方であるという信念がある。ソクラテスは特にその考え方には動揺することなく一徹に守っている。

2,最初に持っていた直感的なことを相手が言う。しかし最後は必ずその直感はソクラテスに崩されてしまって結論は最初に意識されていたものとは全く逆になる。この彼の哲学の特性を知らなければ、ペテンにかけられたと思うことになる。しかしこれこそがソクラテスの哲学なのである。論理を突き詰めていくと彼の結論がその通りと皆納得することになる。しかし納得はしながらも意識は違うんじゃないかと思う人もいる。それはクリトンもパイドンも同様だった。ましてや一般の人はそう思っただろう。

このソクラテスを読んだ後で

生き方

ソクラテスのような生き方ができるか、あるいは死を目の前にしてこの論理に鋭くのっかった議論ができるだろうか。というのがこの本を読んだ時の感想である。自分も75を過ぎた。もういつ死んでもおかしくないところへ来ている。後期高齢者である。しかしいつまでも若いと考えている。それでも何があってもおかしくない。自動車事故、がんなどの病気、現在で言えば熱射病などで倒れる。あるいは災害に遭遇する。そんなことは普通にある。一方で犯罪に巻き込まれることもあるだろう。あるいは意図せず犯罪者になることもあるかもしれない。そういう時にこのソクラテスのように落ち着いていられるだろうか。死が怖くないだろうか。年齢を重ねても死は怖いと思っている。そういう意味で言えば、彼は生き方の原点にあるような人であることがわかる。

また一方で論理のほうはどうだろう。彼の哲学的な論理の進め方。いろんな人と話して対話しながら論理を詰めていく。そうすると最初にあった基本的な考え方が崩されて全く反対の方向へ行ってしまう。これはまた難しいだろう。ソクラテスの本にも書いてあるが自分の説をむきになって、反対論を説き伏せようとしてきた、という人のほうが多いだろう。相手の話を聞いてその論理の筋立てをを理解し、その論理から違う方向への論理を導き出すなんていうことはしたことがない。だから今まではっきり言って他人と対話してきたことがないともいえる。おしゃべりはしてきた。ソクラテスの言う対話はない。

対話は哲学の始まりだ

世界の哲学者であるからしてそのまま、真似るなどということは当然できない。しかしそこにあるソクラテスの本質は真似られるかもしれない。真似ていく必要もあるのだろう。特に対話すること。相手の話をよく聞くこと。これは重要だろう。この基本なくしてソクラテスもない。これはある程度努力すればできるかもしれない。この考え方はSNSなどと対極にある。ソクラテスはXに反対するだろう。やめたほうがいいと。ゆっくりと相手の顔を見ながら聴いて、話す必要がある。ここからがソクラテスのスタートということになる。だからこのスタートを肝に銘じる必要がある。これが哲学の原点なのであるから。ヘーゲルやデカルトなどの難しい哲学も必要なのかもしれないが、スタートはこの対話する精神がなければ哲学も論理もないのである。これは努力次第だ。そういう意味で最初に立てた期待、何か考えることの基本を知りたいと思ったことについては裏切られてはいるのだが、なんてことはない対話なのである。これができれば最初の一歩となりうる。いろんな難しい哲学やいまはやりのAIもとりあえず不必要だろう。SNSは少し危険だ。対話を奪っている。対話することをしないようになっている。敵に投げつけるだけの言葉である。これは言葉でしかない。対話ではない。しかし対話ができれば考えることの最初の一歩たりうる。この対話というのは奥が深い。平和である。平和を可能とさせる。相手の考え方を考える。これは戦争の解決の一歩だ。だから対話は考える一歩であり、敵対するものを平和に向かわせる力となる。

真実

またさらに言えば、ソクラテスがどれだけ真実に迫ろうとする考え方に満ちているか、ということに気が付く。死のうとする人間が究極の論理で若い人を導いていく、その力のようなものを感じた。その力はどこから出てくるのだろうか。我々も牢獄のような小さな部屋で世界の事を心配している。そこで小さいながら真実を発見して発信していく。死に際になってもそういう活動を続ける。真実を追い求める気持ちに老いも関係がない。あの当時の70歳と言えば本当に老人だろう。この混乱する世界の中で何をすべきか何を認識すべきか、こういうことに関してはソクラテスは原点にいる人だ。

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